ボブ・ディラン、『ダーウィンの危険な思想』、柳沢教授

 2001年の『思想』に「身体を所有しない奴隷」という自己決定権論を書いて以来、もう3年以上、僕は理論的な論文を書いていない。何もしていなかったわけではなく、ちくま新書をこつこつ書いていたし、もうすぐナツメ社というところから出る予定のジェンダー早わかり本も進めていたのだが、イラクパレスチナについての報道に接するたびに無力感に打ちのめされたり、それ以上に重い鈍痛のような気がかりが身の回りに続いたこともあって、「知的」な作業に対して、何となく燃え立つようなものがもてなかったのだろう。そんな薄闇のような気分がようやく融け出して、いまニューロンが発火しているぞという感覚を覚えるようになってきたのは、去年の後半ぐらいからだった。こんなふうに停滞している場合じゃないという、言葉では重々わかっていたはずのことが、やっと脳も含めた身体のレベルを活性化させるところまで浮上してきたみたいだ。
 ボブ・ディランの最新作『マスクト・アンド・アノニマス』(ディランが企画した映画のサントラらしい)は、真心ブラザースの衝撃的な「マイ・バック・ページ」で幕を開けるのだが、あの名曲のリフレイン〈あの頃の僕より/いまのほうがずっと若いさ〉がいまほどピンと来る時はなかった。ディランの歌にはいつもそういう力がある。ずっと前から知っていて、何百回も聴いたことのある歌の一節が、ある瞬間にふっと立ち上り、ああそういう意味だったのかとわかる瞬間がやってくるのだ。「ミスター・タンブリンマン」も、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー」も、僕が初めて聴いたのは14歳のときで、「はげしい雨が降る」の訳詞を下敷きにはさんで授業中に繰り返し読んでいたりしたのだが、それらの曲でディランが歌っていることが「わかった」のは、ずっとずっと後のことだった。言葉が難しいのではない。「タンブリン・マン」の<狂った悲しみのねじ曲がった手が届かないところ>、そんな場所が<ある>のだということそのものが、中学生の時にはまるでわからなかった。そしてそれがどこにも<ない>ということも。(それにしても、ディランがリマスター盤で再発されているのはいいとして、SACDハイブリッド盤から時をおかずに「究極の紙ジャケ」CDが出るのは、いくら何でもアコギな商売に過ぎないか。)

 そんなわけで、あまり本らしい本を読まなかった昨年だが、その中で飛び抜けて楽しかったのは、ダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想』。進化のメカニズムの核である自然淘汰を「アルゴリズム」と把握し、いっさいの生命現象を説明するには、原理的にそれだけで十分だということを説得的に論じる大冊だ。

……ダーウィンは〈アルゴリズム〉というものの力を発見したのである。アルゴリズムというのは、それが「作動」ないしは実地に運用されれば必ず――論理的には――ある種の結果を生み出すものと期待される、ある種の形式的プロセスのことである。(68頁)

 このことさえ「さしあたり」頭の中に仮定できれば、後は本書を読むこと自体がアルゴリズム的なプロセスとなって、どんどんページをめくっていける。とは言っても、進化論をまったく初歩から勉強しようという人にはややキツイかもしれないが、概論書を数冊読んだことのある人で、大雑把な議論に煮え切らない感を抱いているような人にはぜひお薦めしたい。
 しかしもちろん疑問もある。デネットが言うように、(1)意識や心と呼ばれる現象が、物質の組み合わせから生じること自体には何の不思議もない(少なくともそれは、説明可能であるという意味で「奇跡」ではない)としても、そのことと(2)「心とは何か」、それをどのようなものとして理解するかという問題は別の次元のことのはずだ。しかしどうもデネットは、(2)の次元にかかわる、自身の「心の哲学」における立場(チューリング・テストに合格できるロボットがあれば、そいつには「心がある」とみなすべきだ)に引きずられて、それを(1)を認めることの必然的な帰結であるかのように語っているように思える。
 もう一つ、邦訳で2段組・700頁以上に及ぶ本書にして、少なくとも生物学と社会をめぐる議論に限っては、僕にはずいぶん粗い議論であるように思えた。例えば、「徳性の起源」と題された章で、フェミニスト生物学者アン・ファウストスターリングの社会生物学批判を反批判していて、そこには傾聴すべき内容があるのだが、しかし動物の行動を生物学者たちが擬人的に「レイプ」とか「ホモセクシュアル」とか呼ぶことを正当化し、スターリングによる批判を揶揄的に片づける議論の運びはいただけない。(デネット氏の文章には、たまにこうした「浅薄な意地悪さ」が顔を出すのが減点要因だ。)

……「強制的交尾」(とかそれに類する言葉)の代わりに「レイプ」という短くてキビキビした言葉を用いるのは、ひどい罪になるのだろうか。(659ページ)

云々とデネットは書くが、僕ははっきりと「なる」と思う。それが価値中立的な科学であって、日常世界に蔓延する差別や暴力に加担する〈日常的な〉言語行為とは一線を画しているのだということを生物学者が本当に主張したいのなら、「レイプ」のような日常語などに依存しないで、価値中立的な専門用語だけを徹底して使えばよい。どうしてそれではいけないのか? それでは「一般読者」が進化生物学にアクセスできないから? しかし、「遺伝決定論」(しかも、価値まで含んだ決定論)という超・強力なミームの威力を真剣に警戒するのなら、「わかりやすい」が問題含みの日常語による「啓蒙」が妨げられることなど、取るに足らないことにしか思えないのだが。(同じことは、スティーヴン・ピンカーのあの面白すぎる啓蒙書群については、よりはっきりと当てはまる。それについては、どこかで書くこともあるだろう。)
 それでも『ダーウィンの危険な思想』は抜群に楽しい本である。読み終えた後に、もっともっと考えるべき論点が頭のなかをぐるぐる旋回して、居ても立ってもいられなくなる。だから、寝る前には読んではいけない。(ところで、『声に出して読む』の斎藤孝氏が翻訳に加わっているのは、ちょっと意外だった。)

 『不思議な少年』が好調な山下和美『柳沢教授』第18巻のあるエピソードの終わり、教授が少年に語りかける。〈君も今日、何かを発見したはずだ……近江君、もっと知りなさい。そして、もっともっと大きくなるのです。君にもまもるにも、そうする権利が与えられている〉。〈そして我々大人は、どんなことがあってもその権利を守ってみせよう〉。それ以外に大人がやるべきことなどあるだろうか。まだ家の中で眠りつづけている君たちに。君の世界は良くもならないが、ただ悪くなるだけでもない。他人とつきあう必要などない。誰がどういおうと無視すればよい。それでも、外の世界は、君たち二人が自分の足で出て行くに値する。いつかこのことを理解してほしい。僕は君たちがそうする権利を、どんなことがあっても守ってみせよう。