BRUCE SPRINGSTEEN、ゆらゆら帝国

◆SIGHT最新号は「1975年」特集。でも表紙は『明日なき暴走』のジャケットだし、内容もスプリングスティーン関連の分量がいちばん多いから、実質的には半ばスプリングスティーン特集といってもいい。渋谷陽一氏の巻頭言もスプリングスティーンに合焦したものだ。とはいえ、スプリングスティーン特集と銘打っても、現在の日本ではあまり売れないだろう。スティービー・ワンダーやデイヴィッド・ボウイ、さらにはモハメド・アリの記事を並べて、1975年という切り口でまとめたことは、しかし、単に営業的な読みだけではなかったはずだ。内容は充実している。ブルース関連は1975年のインタビューと、コンサートでのMC集という二本立てで、後者は日本版CDの訳詞などでも読むことのできるものが多いが、それでも改めて並べて読むと遠い目になってしまう。欲を言えば、いくつかのテクストを訳している高見展氏の本格的なブルース論を読んでみたかった。
 それ以外のテクストもすべて面白い。スティービーのポジティブさ、ボウイの完全にイカれたインタビュー、しかし何より感動的なのはマイケル・スタイプパティ・スミスへの思いを率直に綴った文章だった。「ホメ殺し」などという不潔な観念の存在しない場所で、15歳のときにパティの『ホーセス』に遭遇したときの衝撃について、これ以上ないくらい、ありとあらゆる賛嘆の言葉を繰り出して、必死に伝えようとしている。それを読みながら、かつてブルースとパティが「ビコーズ・ザ・ナイト」を競作したことを思い起こし、次に、どこかで水上はるこ氏が、若きブルース・スプリングスティーンの「女の子のように細い腕」について書いていたはずだと、曖昧な記憶をたどることになった。
 僕ももうBruce Springsteenを25年間聴き続けている。けれども彼は、僕にとって、いまもなお何か摑めない、摑み所のない人だ、という感じがする。見かけはとても単純だ。ナイス・ガイ、アメリカの良心、The most faithful musician。元不良のロックンローラーという名の優等生。そんなイメージだって、まるで間違いだというわけではない。極めて優れた最新作『デビルズ・アンド・ダスト』を、僕は深い感動と嘆息をもって受けとめながら、しかし心のどこかで<立派すぎる……>と呟きたくもなるのだ。でも、彼はそんなイメージからするりと逃げていってしまう。真正面から、そんなパブリック・イメージに異を唱えるわけではない。むしろそうしたポジションを引き受ける、その姿勢のストレートさには、ほとんど畏怖をさえ感じさせる。僕はそんな彼を心から崇敬している。けれども、ブルースという人が少しだけ見えた、という気がして魂がひそかに震えるのは、たとえば、10人以上の人間を恋人といっしょにただ無意味に殺した殺人犯の独白である名曲「ネブラスカ」について、彼がこんな風に語っているのを読んだときだ。<これは疎外と孤独の物語なんだ。……俺がひどい疎外感を抱えて生きてるのは結構、長い期間だよ。この曲は、自分のそういう部分が剥き出しになったときの状況を歌ってるんだと思う。そうなったときの俺は、もう人と繋がることなんてどうでもいいし、法律や道徳の意味もどうでもよくなってしまうんだ。別の世界に行っちゃうんだよ。>僕はいまだかつて、どんな分野であれアーチストから、これほどまでに一字一句、正確に自分そのもののものとまったく同じ思いを吐き出した言葉を聞いたことはない。だから彼がその後、現在に至るまで、どのように生き抜いてきたかに、興味などという言い方ではまるで追いつかない、それを知りたい、理解せねばならないという衝迫を感じるのだ。

◆最近聞いたCDで良かったのは、ゆらゆら帝国の新譜『sweet spot』。ギターが混沌とうねる、という彼らのトレードマーク的タイプの曲は少なく、曲ごとにそれぞれ異なる、とぎすまされたサウンド・プロダクションが仕掛けられている。まったく飽きず、繰り返し聴いてしまう。僕が特に気に入ったのは<残念ながらロボットさ/心ここにはない>という暴力的な歌詞が炸裂するやつ。曲名は忘れた。もっとも、その(心の哲学でいう消去主義的な)理論には賛成できないが(そんなことを一人称で歌っているやつに「心がない」なんて、どうやったら信じられる?)、敵ながらあっぱれ、という感じです。