野茂英雄と筑紫哲也

◆もう10年にもなるのか。野茂英雄ロサンゼルス・ドジャースに入団して新人王をとった1995年だったか、それともノーヒット・ノーランを達成した翌1996年のことだったか、正確には覚えていないのだが、安達哲が『コミックCUE』に短い作品を描いたことがある。劣等感に打ちひしがれ、世の中のすべてを憎悪してみせる卑屈な少年が(新宿と思われる)街を歩いていると、突然(アルタと思われるビルの)大型ディスプレーに野茂英雄が映し出され、それを見た少年はうろたえながら、「ノモ……」と呟くのだ。野茂英雄はそうやって僕らの精神に巣くう卑小で煤けた箇所に水流を通し、少しだけ浄化してくれた。そのことを最も明晰な視線でとらえた安達哲は、安定して作品を発表しつづけるには、あまりに〈繊細な精神〉の持ち主だったのだろうか。
 そうだ。野茂英雄は奔流である。かつてジル・ドゥルーズはJ・P・サルトルを懐古して「彼は一陣の風だった」と言ったが、野茂選手は「風」の割にはちょっとデブすぎる。でも彼の佇まい、強靱な言動、漲る意志、そして何よりもあの雄大な投球フォームと切り裂くボール、それらの要素がひとつとなってもたらす印象は、透明で、輝かしく、いつまでも動的なものだ。
◆野茂について、こんな讃辞を書き連ねていると、いつまでたっても終わらない。僕が忘れないうちに書き記しておきたかったのは、彼がメジャーリーグに行く意志を表明した1994年秋にまきおこった一連の騒動のことだ。野茂自身が『僕のトルネード戦記』(集英社文庫)で書いているが(実際に書いたのは、本文中にコメントを挟んでいる二ノ宮清純氏だと思うが)、そのとき、確かに日本のマスメディアや、そこにコメントを寄せた人びとの多くは、あからさまに非難がましいか、良くてもせいぜい懐疑的だった。そして彼らの多くは現在、そんなことはすっかり忘れたような顔をして(実際に都合良く忘れているのかもしれない)、野茂の日米通算200勝という偉業(まさしく!)を称えたりしている。たとえば『朝日新聞』が、当時、アメリカに行ったら日本代表と見られるのだから責任重大だとか、日本のプロ野球メジャーリーグの二軍になってしまう危険をどう考えるのかだとか、愚にもつかぬ言いがかりを、いや真面目にいえば、本来はプロ野球機構のお偉いさん方や自分たちスポーツ・ジャーナリズムにこそ突きつけるべき問題を、単なる一個人であり、「たかが」野球選手である野茂英雄に押しつけていたこと、いったい何様のつもりだったのかは知らないが、そのことを僕は決して忘れない。
 そうしたなかで、ほとんど唯一、筑紫哲也だけが、終始一貫して揺るぎなく野茂を支持していたこと、そしてすでにマスコミに対する深い不信感を隠さなくなっていた野茂自身も、渡米直前に筑紫の番組には出演したことも、僕ははっきりと覚えている。そのことが歴史の泡間に消えてしまわないように、改めて記録しておきたい。筑紫哲也という人には、そのようにどこか〈信用できる〉と思えるところがある。彼が、ジャーナリストとして優秀なのかどうか、よくわからないし、あまり興味もないが、たとえ彼が数多くの間違った情報伝達や軽率な意見を口にしてきたとしても、あのとき、拍子抜けするほどオープンに、穏やかに、野茂の大リーグ挑戦にエールを送りつづけたことだけは忘れることができないし、僕はそういう意味で〈信用できる〉人が好きだ。

◆最後に。先に、僕は安達哲について、過去形で語った。それは僕よりもずっと若い安達氏に対して無礼この上ないふるまいであることは重々承知しているが、少なくともそれが皮肉のためではないことは言い訳として書いておきたい。かつて桑田佳祐「吉田拓郎の歌」によって、低迷していた吉田拓郎に容赦なく斬りつけたことを思い起こしてほしい(自分と桑田を並べるほど傲慢ではないつもりだが……)。安達氏には、繰り返しマイナーから這い上がった野茂英雄のように、その驚くべき才能にみあう作品をまた描いてほしいと、心から願っている。