マーク・トゥエイン、不思議な少年

山下和美『不思議な少年』がおもしろかったので、御本家マーク・トゥエイン『不思議な少年』(中野好夫訳、岩波文庫)も読んでみた。もの凄い面白さだ。山下版とのちがいは、かの「不思議な少年」(a mysterious stranger)が明確に「堕天使」と説明され、サタンという名を持っていること。そして、はるかに透徹した姿勢において、人間をとるにたらない存在とみなしていること。ただし、その分、物語としての豊かさは少ない。物語は絶望とは相容れないのかもしれない。
 訳者中野氏のあとがきや亀井俊介氏の解説によれば(それ以前に、表紙の煽り文句によれば)、この作品には、晩年のマーク・トゥエインをとらえていた人間への絶望が裸出しているとのことだ。ということは、あの逞しく楽しい『ハックルベリー・フィンの冒険』とはまるで違う世界と言いそうになるが、実はそうでもない。絵に描いたような厭世観に包まれた『少年』が、そのあまりにストレートな人間否定によって奇妙に明々とした雰囲気を得ているのと対照的に、『ハック』の痛快なバカバカしさの隙間からは、ずっしりと腹に溜まるやりきれなさが漏れ出ていたではないか。たとえば、二つのファミリーが、もう何がきっかけだったのかも、誰が最初に始めたのかも忘れられてしまった殺し合いを、何十年も続けているというエピソード。スティーヴン・ピンカーは『人間の本性を考える』(NHKブックス)の中で、人間が「名誉」を理由とした争いをやめられないことを見事に描き出した例としてこの場面を挙げていた。せっかく仲良くなった友だちを、そんな全く無益な抗争で失わなければならなかった少年ハックは、それまでに感じたことのないような深い悲しみと疲労を感じるのだ。
山下和美は、トゥエインから基本的なモチーフだけを得て、あとは独自の作品に仕上げているようで、具体的なエピソードの重なりなどはほとんどない。その数少ない例外のひとつは、山下版の最も印象的な場面、老ソクラテスが少年に連れられて人類の歴史を遡り、さらに未来にまでわたって、その悲惨のすべてを一望する箇所だ。トゥエイン版にはソークラテースくんは登場しないが、類似のエピソードが出てくる。これは、エドモンド・ハミルトンの傑作短編「世界の外のはたごや」に発展したのではないかという気がするのだが。
不思議な少年 (岩波文庫)