加藤周一『20世紀の自画像』ほか

 昔から公立学校のカリキュラムや教科書を頭ごなしにけなす人たちはありふれていて、「学校英語はダメ」だとか「国語はもっと論理的な文章を」とかもっともらしい主張が倦まず繰り返されてきた(いる)のだが、その手の大雑把なクリシェってのは、たいていの場合、単に勉強不足を棚に上げて、自分の無能を他人や社会のせいにする人間の悲しい性から出ているだけのものだろうと、子どものぼくでさえ薄々はわかっていた(大人になってみたら、やっぱりそうだったと改めてわかった)。学校英語が役に立たないなどというのは真っ赤な嘘である。当然のことながら、中学校で習うぐらいの文法をきちんとマスターしておかなければ、一定以上の英会話も読み書きもできるはずがない。あとは自分次第なので、どこかでCharが「中三ぐらいになれば嫌でも英語の基礎は知っているから、あとは米軍基地に出かけて会話を学んだ」と経験談を語っていたが、そういうことだろう。国語の教科書にも、すぐれた文章がいくつも載っていた。小学生のころ、ぼくは新学年の四月の最初の授業で新しい教科書を手渡される瞬間がとっても好きだったのだが、とくに国語の教科書を開いた瞬間、低学年のときよりも小さな字がぎっしり詰まっているページが目に飛び込んできたときのゾクゾクする感覚はいまでも鮮明に思い出せる。それは知の視界が少しずつ開けてゆき、自分がその未だ見ぬ土地に足を踏み入れることへの、根源的な喜びだったはずだ。

 高校の現代国語でいちばん印象に残ったのは原民喜八木重吉の詩だったが、ものの見方、考え方の上で現在にまで至る重大な影響を与えられたのは、何よりも加藤周一の「高みの見物について」というエッセイだった。『雑種文化』(絶版)に収録されているはずだが、いま手元になく、どうすれば読めるのかわからないが、有名な文章なので、たぶん加藤氏の著書のどれかに再録されているはずだ。現在でも中学生の国語教材にされたりしているらしい(もしかしたらぼくも読んだのは中学生のときだったかもしれない)。
 このエッセイが語っていることはこの上なく明快である。自分は、真珠湾の報を聞いた瞬間に、戦争のあの無惨な顛末を見通した。それはほぼ完璧に正しい予見であった。だがそのような予見をなしえたのは、自分が若く、現実に責任をもつことなく「高みの見物」をしていたからだ。
 しかし、そこから加藤が引き出した結論は、当時のぼくには必ずしも明瞭ではなかった。無力であるがゆえに正しい認識をもつことができるという、そのことについて、著者は結局どうだと言いたいのか。間違ってもいいから現実に関われと言いたいのか、それとも対象から距離をとって正しい認識を得ることの意義をクールに説いているのか。その肝心のところが今ひとつつかめなかった。そしてそれは、折りに触れて思い起こさずにはおかない、気に懸かる文章になったのだった。
 それから20年以上が経って、いまは加藤のメッセージが理解できるような気がする(確信、とまでは行かないのだが)。上のような二者択一そのものが間違いだったのだ。認識と実践(アンガジュマン?)との二律背反、その両義性への透徹した認識そのものが「高みの見物について」の思想であって、それは絶えず流動する繊細な現実の個々の時点でどう振る舞うべきかについてのわかりやすい処方箋を与える檄文などではなかったのだ。
 そんなことはわかりきっている、と言いたくなるかも知れない。このエッセイにかぎらず、加藤周一の文章はあまりに軽妙で、こけおどしめいたところがまるでなく、語られているのはとても基本的なことだから、何重もの逆説やパセティックなレトリックに慣れきってしまった現代の(若い)読者には、一見、たいしたことを言ってはいないように思えるかも知れない。だが本当だろうか? 自伝『羊の歌』でも強い調子で語られていたのは、日本人の多くがなぜ「戦争のゆくえ」という現実に関わる認識と「日本が勝ってほしい」という希望とを峻別できなかったのかという問いだった。これはたしかに、あまり華々しい問いではない。けれども、いったいどんな思想家がこの問いにきちんと答えたかと言えば、少なくとも僕は知らない(それは思想家などではなく、むしろ進化心理学によって答えられるべき問いなのかも知れない)。
 これはかなり痛い自戒を込めて書くのだが、加藤周一の最大の美点だとぼくが思うのは、こうした一節に明白な、パセティックな言辞とファナティックな精神への嫌悪であり、それに対する抵抗の意志と方法論である。加藤が(その軽妙な物腰を片時も忘れずに)戦い続けているものとは、昨今の物書きでいえばたとえば「アウシュビッツこそが詩である!」(『イデオロギーズ』)と叫んだ福田和也のような言論であるだろう。しかも、Amazonの読者評における「モワ・ノンプリュ」氏の的確なまとめを借りるなら、そこでの福田の主張、たとえば「普遍性を欠いた美意識の理念化は、排他的な共同性を捏造することで普遍性の欠如を埋め合わせる」なんてことは、加藤周一を丁寧に読んできた読者なら誰でもとっくにわかっていることなのだ。しかもはるかに平明な言葉づかいによって。
 加藤周一には「私は信念なるものを信じない」という題の文章もあるそうだ。実際に彼は、幼稚きわまりない「国家神道」だけでなく、世界認識の方法であることを超えてしまった信仰としてのマルクス主義にも与しなかった。また彼は、かつて巷に蔓延したトリック、すなわち「ナショナリズム」を先進国の「国家主義」と第三世界の「民族主義」とに訳し分け、前者を批判しながら後者を肯定するような機会主義的な二重基準にも批判的だった。『日本文学史序説』では、大衆の求めたものは結局「色と食」だけだったと淡々と(しかし実は恐るべき真理を)書き記しながら、しかしエリート主義でも大衆礼賛でもなく、民主主義によってナショナリズムを制御すべしという極めて今日的な課題をいち早く提起していた。その上で「日本の文化が大好きだ」と語るのだ。かくして、加藤周一がこの50年あまりのあいだに提起してきたクールな問いの数々は、残念ながら、いま改めて重要なものであることが判明しつつある。

 『二〇世紀の自画像』は、加藤周一の小論一つとカルチャー・センターでの講義録に、成田龍一の長い解説を付した小著である。ちょっと面白みには書けるけれど、加藤の語り口の片鱗に触れることはできるし、成田の解説は読書案内として好適なので、「夕陽妄語」はちとキツイという読者にもすすめたい。