言葉、ジュディス・バトラーさん

 言葉を大切にしよう。僕が教師として、若い学生たちに言いたいのは、たったこれだけのことだ。こんな言い方が古くさく、お説教じみて聞こえたら、どうか〈どうしてそう感じられるのか?〉まで考えてみてほしい。

 国分寺市が企画した人権意識啓発のための講習プログラムで、上野千鶴子さんを基調講演に呼ぼうとしたところ、東京都教育庁が認めず、プログラム自体がつぶされた。この事件は新聞報道(『毎日新聞』2006年1月10日夕刊)もされたが、気づいている人は少ないかもしれない。
 報道によれば、東京都教育庁側が挙げた理由はこうだ。上野さんは「女性学」の専門家であり、東京都が教育現場での使用を禁止(!)している「ジェンダーフリー」に言及する可能性がある。。。「共謀罪」と同じ発想で、ある意味では第二次大戦前・中の言論弾圧よりもヒドイ。だって、何かを言ったから攻撃するんじゃなくて、まだ何も言っていないのに、言うかもしれないから講演させるなというのだから。
 ここ数年の東京都教育庁が、「憲法学者」もどきや「教育学者」もどきのでっちあげ発言だけに基づいて、「ジェンダーフリー」教育や男女共同参画政策の意味をねじ曲げ、それらを否定する圧力を教育現場にかけつづけていることについては、以前にも書いた。その全貌については、最近出た木村涼子編『ジェンダー・フリー・トラブル』(現代書館)でつかめるだろう。
 それにしても、これほどまでに、今まで一度も証拠が示されたことのないウソ八百(「ジェンダーフリーで男女の更衣室を一緒にしている」「修学旅行で男女一緒の部屋に寝かせている」等々)を、政治家が知らぬ顔して事実のように語り、役人が動き、現場を圧迫して、それを『毎日』みたいな歴史のある新聞が、調べもしないでうのみにして記事を書いているとは。。。文字に残された「歴史」なるものの胡散臭さを、理論上だけでなく、肌身に沁みて感じる今日この頃。
 学生諸君、あらゆる情報を直視して、自分の〈理性〉に照らしてよくチェックし、その上で納得するか、しないかを、きちんと判断してほしい。何となくの感じ、「気分」なんていうお寒い流行で片づけるのではなく、自分の「頭」で、しっかり考えること。

 先日、Judith Butler先生の講演会がお茶の水女子大で催された。久しぶりに(遠目だけど)拝めた先生のお姿は、少し髪が白くなったけれど、ほとんど変わっていないようだった。そして、ゆっくりと、ひとつひとつ言葉を選び、それらを陶芸家のような手つきで扱いながら、丁寧に話す態度も。
 で、何となくAmazonで検索してみたら、いつのまにか新著Giving an Account of Oneselfが出ていたのですね。