前回の続き

 たとえば、「科学と人間」というテーマ。進化生物学が新たなステージに入っている現在において「人間」を考える上で最もホットかつ必須の(どんな意味でこのテーマをとらえようと)問題設定だ。
 サルトルには二重の意味での科学批判があったと思う。ひとつのレヴェルは科学技術による人間疎外であり、別のレヴェルは科学的思考そのものが人間の〈全体性〉を蔑ろにすることへの批判だ。どちらも古くて新しい論点だと思うが、いまは後者についてだけ思いつきを書きとめてみる。この種の批判はつねに基本的に正しい。進化生物学者たちがいくら声を揃えて「進化生物学はむしろ人間理解の基礎なのだ」と(正しく)合唱してみたところで、それはかわらない。もちろんすべての人間が進化の産物であり、したがって進化のロジックによる制約を免れない「本性」(nature)を抱いていたとしても、そしてそれが一個の人間を理解するために〈絶対不可欠〉な知識であることが正しかったとしても、しかし他方、それによって一個の人間全体について語りうることはほんのわずかなのだから(何年か前の日本倫理学会で、ゲスト・スピーカーの岸由二さんが「生物学で人間についてわかることは5%ぐらい」と、生物学を擁護しているのか非難しているのかわからないスピーチをしていたのが思い起こされる)。進化生物学者たちの多くがフロイトを忌み嫌うのは、高みにいる気になっている人間なるものをその最低部に引きずり下ろすという方法における近親憎悪に過ぎないような気がする。そしていまのところ、科学的根拠があろうがなかろうが、精神分析のほうが人間について教えてくれるもの(情報量)ははるかに多い。

 ところがサルトルは単なる科学音痴の文学愛好者ではない、というのがちょっとややこしいところだ。海老坂さんも触れているように、彼はマルクス主義に<人間−社会−歴史>を理解するための「方法」(具体的には心理学や社会学)を与えようとして、『方法の問題』から『弁証法的理性批判』(ぼくはこの本はぱらぱら見たことぐらいしかないのだが)に至る論考を書いた。つまり現実を理解するためには、まるで斜に構えず、使える道具は何でも使おうという姿勢を持っていたのである。サルトルがいま甦ったら、社会生物学だって利用して、世界の〈全体〉を記述することに挑戦するかもしれない。最晩年の物議を醸したインタビュー(「いま、希望とは」)において、ベニ・レヴィに暴力と友愛の関係について突っ込まれてうろたえ、「人間はみな同じ起源をもっている、われわれすべては兄弟(同胞)なのだ、同じ母親から生まれたのだ、といったことを口走」ったのだって、その徴候かもしれないのだ(海老坂170ページ)。毛沢東派青年のレヴィはこんな反応を全く許容しなかったし、海老坂さんもボーヴォワールの「ふやけた思想」という評言を引きながら、「たしかにそれは思想家の発言とは思われない」と斬り捨てているが、ぼくはちょっと違うと思う(全然違う、とは思わないが)。たとえば、創造論者やレイシストたちに対して人類の単一起源説を言うことは、けっして「ふやけた」ふるまいではない(グレッグ・イーガン『祈りの海』所収の短編「ミトコンドリア・イヴ」でその雰囲気をつかめるだろう。詳しくは鵜浦裕『進化論を拒む人々』勁草書房)。
 もうひとつ、サルトルの〈自由〉論は、ただ現実世界に対峙してアクチュアリティを増しているだけでなく、「自由意志」の神話を徐々に浸食する認知科学に根ざした現代の自由論と親和的だし、ある意味でその先駆らしささえある、また別の意味ではそれらが性急に(方法的に?)ネグっている「社会」の作用を徹底して注視している点で、少なくともそれらと補完的であるように思うのだ。海老坂さんは、前期サルトルが自由を高らかに謳ったのに対して、後期サルトルにおいて自由の余地は大幅に狭められている、とまとめている。サルトル自身の思想史としてはその通りなのだろう。けれども、すでに『嘔吐』において、少なくとも高校生の僕にとって最も印象的だった一節は、例のマロニエの木を見て吐き気を感じたという箇所ではなく、ロカンタンが小銭か何かを床に落として拾おうとしたのになぜかそうすることを躊躇し、「自由ではないと感じた」というところや、あるいはドアノブを回そうとして、手がドアノブを回すのではなく、ドアノブの形に手が合わせることを強いられていると感じる、といった場面だった。つまり世界の中で、世界によって浸透された〈私〉に、いったいいかなる自由がありうるのかという問いが鮮烈に吹き出すような叙述こそが、『嘔吐』の本質にあったような気がするのだ。すでにサルトルは自由がその辺に転がってはいないことに気づいていた。そこから「反逆」のテーマへの道のりは一直線だろう。後の未完の小説が『自由への道』だったのも当然だろう。自由は、運命への反逆の只中に(再び)見出されるべきものであり、そのために必要なのは(シュールレアリストのように無意識の解放などではなく)自己欺瞞を粉砕してあらゆる事象を反省的意識に持ち来たらすことであり、そうして暴力を友愛に転化する瞬間をとらえることである。こんな風に考えると、もちろん粗雑なメモ書きの範囲ではあるけれど、僕にはサルトルの野心をそれなりのやり方で継いだのがフーコーだとしか思えないので、サルトル構造主義を(たぶん)深く理解しようとせずにイデオロギー的に性急に断罪したのは残念だった。

 実存主義とは能天気な自由賛歌ではない(そんな風に誤解している人は実際にはいないかもしれないが)。それは反逆の、より一般化していえば抵抗の思想であり、その中に自由を見出すアティチュードの謂である。そのある側面を代表する現代の思想家は、たとえば笠井潔(『ユートピアの冒険』)だろうが、僕としては実存主義の正統、ないし「21世紀の実存主義者」として、もちろんジュティス・バトラーを挙げたい。『ジェンダー・トラブル』が何よりボーヴォワールの読み直しから始められていたこと、また複数のアイデンティティの交錯というバトラーが最も鮮明に定式化したモチーフ、これらは、サルトルの〈全体性〉や〈人間が人間をつくる〉や〈実存は本質に先立つ〉から、まったく隔たっているわけではない。ただ、バトラーは精神分析を肯定的に援用しているのだが、僕としてはそこに現象学がどう効いてくるのかをずっと気にしながら(まだ読んでいないのだが、バトラーはメルロ=ポンティ論も書いている)、この辺りのことを勉強していきたいと思う。