コメントとTBについて、『コスモス・ホテル』

 このブログでは、コメントとトラックバックを設定していません。その理由は、それらがなんのためにあるのかが実感としてわからないから、というのが最も根本的ですが、もう一つは、仮に私の書いた記事にコメントをつけてくださる奇特な方がおられた場合、私の気性として、それを放っておくのは落ち着かないのですが、しかしいちいちご挨拶をお返しする余裕もないということで、それならごちゃごちゃ考えなくて済むように、最初から「コメントを受けつけない」設定にしておけ、というところです。
 しかしながら、当然のことですが、拙文を読んだご意見を拝聴したり、それ以上に、拙文から万が一何か啓発されるようなことがあれば、そこから生まれた新しい別の文章を読ませていただく、ということ自体を拒否しているわけではありません。そんなことはありえません。しかし、それは、記事の書き手に直接コメントを返す、というかたちでなくてもよいと思うのです。いや、むしろ、そうでないほうがより良い、と思うのです。非常〜に古典的な手垢にまみれたイメージしか浮かばないのですが、「お喋り」とは違って「書かれた文章」というものは、瓶に手紙を詰めて海に流す、そしてそれをたまたま拾い上げて読んだ別の人間が、「返事」を書くのではなく(それはそもそも不可能)、それを読んだことに接続する次の・新しいアクションとして、別の文章を書き、それをまた瓶に詰めて海に放り投げる、……という連鎖であるべきだと、私は考えているのです。

 だから私は、とてつもなく好きな作家やミュージシャンたちに対しても、「ファンレター」を出したことは一度もありません。その本人に合いに行ったこともありません(これは、本人ではなく作品にだけ興味がある、というハナシとは少し違います)。
 でも、ただ一度の例外があります。もう何年も前、私にとってまだインターネットというもの、また「ホームページ」というものが珍しく感じられていたころ、森下一仁さんのサイトを見つけて、つい反射的にファンレターめいたメールを書いてしまったのでした。それは僕がまだ十代の頃、後に『コスモス・ホテル』に収められた、森下さんだけにしか書けない、瑞々しくも感傷的なSF短編の傑作群を『奇想天外』誌上に探して読んでいた夏休みの記憶が、瞬間的に蘇ってきたからでした。