『哲学者の誕生』『ラッセルのパラドックス』

 最近、なかなか一冊の本を通読することがない。目前に締め切りが迫ったささやかな原稿たちに少しでもインスピレーションを加えようと、ベンヤミン『パサージュ論』(岩波書店)の邦訳全5巻を本棚から引っ張り出して拾い読みしたり(しかしやはり<自分も動いている>ということを歴史認識の方法の中に繰り込もうとしたのは途方もないことだと改めて震撼)、柏端ほか編訳『現代形而上学論文集』(勁草書房)の巻頭に収められたデイヴィッド・ルイス論文(部分存在の問題を扱っている)に、ジェンダーについて考えている者としては妙にぞくっとくるアクチュアリティを感じたり、ジョルジュ・アガンベン『ホモ・サケル』(以文社)の第2章をゆっくり読み直したり、会議中には届いたばかりのElizabeth Grosz, Nick Of Time: Politics, Evolution, And The Untimely (Duke U.P.)―これはフェミズム哲学によるダーウィニズムへの応答としての時間論という、僕のいまの問題関心にぴったりはまるような、全然違うような、奇妙な本―をざっと読み進めたり、という感じで、なかなか頭が落ち着かない。

 そんなこんなで、「通読」ということになると、電車の中で読む文庫か新書ばかりになってしまう。その中で最近面白かったのは、納富信留『哲学者の誕生』(ちくま新書)。この本には初めて、あるいは改めて、教わることがたくさん詰まっていた。古代アテナイの寡頭政「三十人政権」が単なる腐敗した独裁に転化してしまったことには、近代の社会主義国家だけではない人間の性なのかとやりきれない思いを抱かせられる。ソクラテスにも愛された怪人アルキビアデスの魅力はいったいなんなのか。しかし何より納得したのは、「ソクラテス無知の知などということは言っていない」ということを、文献学的にきちんと論証していること。僕はこの「無知の知」というのが大嫌いで、そのせいでソクラテスにも「なんかヤダ」という感じがずっとしていたのだが、それこそ単なる無知のせいだったと反省。そりゃそうだ、自分は何も知らないなんてことを「知っている」からって、何が偉いんだ。もちろんそんなことは偉くも何ともないのだ。ソクラテスの偉大さは、自分の無知を自覚することの先で、あくまでも「それなら、より良く知ろう」とし続けたことにこそあったのだ。(そう考えると、山下和美『不思議な少年』第2巻(講談社)で描かれるピュアなソクラテス君の形象は、けっこう真実に近かったのかもしれん。)

 もう一冊は、三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)。もう内容を要約・紹介する気力はないが、ラッセルがいかにとてつもなくヘンテコなことを考えていたかということがよくわかる。同じ著者の『可能世界の哲学』(NHKブックス)は、勉強にはなるが、どうも存在論という肝心かなめ(と僕には思える)の領域にいまいち踏み込んでいないのが煮え切らなかったし、『論理学入門』(同)――実はタイトル通りの内容なのは前半だけで、半分以上は「人間原理」の解説という一種の奇書――の<確率論で“意識の超難問”を雲散霧消させる>という戦略にはどうしても得心がいかなかったが、今回の本を読んだら、ラッセルをもっと勉強してみたくなった(実際にはそんな余裕は永遠にないだろうけど)。やはり良い本というのは、対象への愛がつくるものなのか。
 そこで思い出したのが、というか実はずっと気にかかっているのだが、それは飯田隆『言語哲学大全』(勁草書房)がラッセルに意外と好意的で、日常言語学派に対してはきわめて冷淡なことの意味である。後者については、飯田さんはほとんど無視しているので(「今となっては哲学史上の過ぎ去ったいちエピソードにすぎない」みたいな片付け方だったと記憶している)、ダメとみなす理由さえ、門外漢にはよくわからないままなのです。