マルクスの使いみち

 四十を超えてからじわじわと老眼っぽくなってきて、電車の中で本を持つ手が日に日に顔から遠ざかる。混んだ車内で本を顔にくっつけるようにして広げるという芸当はもうできない。
 そんな苦難とたたかいながら読んだ本書『マルクスの使いみち』(稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅著、太田出版)は、分析的マルクス主義(アナリティカル・マルキシズム)に立つ現代経済学がめざすもの、また新古典派経済学とそれとの関係について大まかに状況を知るには非常に役立つ良い本である。とはいえ、最低限、大学教養課程のミクロ経済学をかじり、全部ではなくても『資本論』を少しはまじめに読んだ経験がないと、(とりわけ吉原氏の議論に)ついていくのは結構キツイかもしれない。稲葉氏がターゲット読者として掲げる「人文系ヘタレ中流インテリ」とは、実際にかなり高いレベル設定のようだ。ぼくも全部がすんなり理解できたわけではない。

 内容的には、第1章「『解体』と『再生』その後」は研究史概観なので、80〜90年代日本の知的風景に興味のない人、また次から次へと繰り出される学者名がピンとこない人は、飛ばしても差し支えない。本書の本体は第2章「搾取と不平等」である。ここではアメリカのマルクス主義経済学者ジョン・ローマーの学説を軸に、「搾取」の位置づけをめぐって話が進められる。「搾取」概念を冷静に見直したとき、それはそもそも市場というか、より大きくいえば「経済」というものが成立することにとって不可避なので、政治主義的観点から搾取はいかん!と叫ぶだけではだめ、ではどうすればいいかというと、搾取はオーケー、でもだからといって現実社会に結果として起こる不平等もオーケーという話ではないんだから、そこはそれで何とかしなくちゃいけない。この辺の議論は大変ためになったし、勉強しなくちゃという気になる。
 なお、この章はほとんど吉原氏の独壇場。きわめてシャープな論の運びに感服させられるが、実は稲葉・松尾対談に吉原氏があとから加筆したそうで、ちょっとずるい。いや、それだけなら別にいいのだが、特に松尾氏の発言が話の流れから浮いていてよく意味がわからない箇所があるのは問題だろう。実はそれ以上の違和感も感じたのだが、それはあとで。

 第3章「公正と正義」では、稲葉氏が現代リベラリズムの正義論ないし権利論と分析的マルクス主義との関係を問う。いつもながら見通しのいい整理でわかりやすいが、第一に、それに対して吉原氏が、基本的には同じでいいと答えてしまっているのは少々肩すかし。第二に、より重要なのは、ここに至って、どうも吉原氏が稲葉氏からの問題提起を理解していないのではないか、という疑念が顕在化してくることだ。とりわけ稲葉氏が、マルクスの使いみちを真剣に考えていくと、どうしても「人間観」みたいな次元にぶちあたらざるをえないと言い、その上で「フェアネス(公正)」とは何かというきわめて核心をつく問いを出し、藝術とかスポーツに関してなら多くの人が厳しい淘汰を認めるのに、それ以外の日常世界では平等が必要とされるのはどういうことなのか、という深い問いかけをしているのに対して、吉原氏は従来の議論で使われてきた概念に落とし込んで整理する、という以上の生産的な対応ができていない。稲葉氏の提起した問いは、ぼくもぼくなりにずっと考えている(しかもぼくはスポーツ観戦が大好きなので、「日本代表」をめぐるナショナリズムの問題とともに、自分自身の問題として考えている)ものなので、ここの議論がまったく展開されなかったのは残念だった。

 で、なんでそうなっちゃったのだろうと思いながら、著者3名それぞれの後書きを読むと、なんとなく得心が行くのだった。第2章、第3章と進むにつれて、その明晰さと学識に関心はしながらも徐々に高まっていた吉原氏への違和感の正体がここで明らかになる。何も、尾崎豊に入れあげたという過去を非難しているわけではない。尾崎に恨みがあるわけではなく、むしろ彼はぼくにとってはある種の「同情」の対象である。そうではなくて、もの凄く粗雑に平たく言えば、吉原氏がどうも「人間」をきわめて平板にしか見ないところで答案を書いているように思えるということなのだ。吉原氏がフェアネスの問いにうまく答えられなかった、というよりも問いそのものの意味がピンときていなかったように見えるのも、その点に関わるのではないか。吉原氏の描く経済システムの「青写真」は興味深いが、少なくともぼくは、<「俺を信じる者は、ついてこい!!」なんてセリフは「女を口説くときにこそ、ふさわしいというものだ(笑)」>なんてことを平気でほざくマヌケな男や、それに本当についていくようなバカ女がたくさんいるような未来社会は、あんまり実現してほしくない。1970年代から80年代にかけて、『ロッキング・オン』誌上で岩谷宏が散々展開した「ガサツな男とバカな女の共謀」批判の価値は失われていないんだなあとため息が出た。ついでに言うと、2ページ中に「(笑)」が5回出てくるような痒い文章も、少なくともぼくはあまり読みたくない。
 それはともかく、「人間の本性」とかいうなら、やはり稲葉氏には進化心理学の話とかにも踏み込んでもらいたかった。
 反対に、本書中の議論ではほとんどプレゼンスのない松尾氏だが、その後書きにはしみじみと考えさせられる。彼がこだわっているのは、要するに<平等をめざした社会主義が、どうして悲惨な不平等と暴力を生み出したのか>という古くて新しい問いだ。その視点から吉原氏のいう「青写真」への違和感を唱える松尾氏の問題意識、というと軽くなるが、あえていえば実存的な感覚は、ぼくにはもの凄くよくわかる気がする。もちろん、吉原氏のいう「青写真」が、松尾氏の指摘するようにハーヴェイロード(経済計画はエリートがやればいいというケインズの立場)的なものとして片づけられるか否かは議論の余地があるにしても。