『ホテル・ルワンダ』、神崎繁『フーコー』

 『ホテル・ルワンダ』を観た。レイトショーは今週の金曜日(14日)までで、それ以降はモーニングショーだけになってしまうので、昨日の夜、あわてて観に行ったのだ。
 内容は圧倒的だった。ルワンダ内戦の惨劇を描くドキュメンタリーを基調に、主人公をめぐる人間ドラマを軸として展開するストーリーは正攻法であり、これしかない。観ているあいだ、何度も胸が締めつけられる。そして主人公が英雄的な機知によって生き延び、また周囲の人びとを救うたびに、ほっとして身体から力が抜ける。その繰り返しに疲れる。あまりにも出来のいいハラハラ・ドキドキのエンターテイメントになっていすぎやしないか、と言いたくなる気もするが、そんな邪念にかかずらっている間もなく、2時間があっという間に通り過ぎてしまう。
 圧倒されながら、さまざまな思念に翻弄される。国家というものの邪悪さ、西側先進国の身勝手さ、しかし何よりも恐ろしいのは<ふつうの民衆>であるということ。言い換えれば、「自然」な感情としての、劣等感、憎悪、復讐。人間を痛めつけ、切り刻むことの悦楽。進化心理学は、そうした闇が消し去られることはありえないことを教えている。そのことを見据えた上で、暴力を最小化すべく社会をコントロールしなければならないと。「人間性」は変わらないし、それを変えようとした試みは、柄谷行人『倫理21』が鋭敏に指摘していたように、悲惨な結果をしかもたらさないという。そして、そんなしょーもない進化の袋小路に、私もまた立ちつくしているのか。

 映画を観に行く前の午後に読んだ、「シリーズ・哲学のエッセンス」の最新刊、神崎繁『フーコー:他のように考え、そして生きるために』(NHK出版)。短いながら、密度の高い傑作だ。同じ著者による『ニーチェ:どうして同情してはいけないのか』と併せて読むことを勧める。いかにも実直だが、淡々というには少し鋭利にすぎる筆致で、著者の専門であるギリシア思想との関連を随所に織り込みながら、<哲学者フーコー>がわれわれに遺してくれたレッスンを読み解いていく。
 ざっと読み通しただけだが、それでも強い印象が残ったのは、ニーチェ『道徳の系譜』で長く引用しているという、2世紀のキリスト教教父・テルトゥリアヌス『見せ物について』に書かれた、一種の暴力論であった。神崎さんの叙述を引用しよう。


 そこでテルトゥリアヌスは、彼と同時代のローマ帝国で盛んだった闘剣士(グラディエイター)同士の殺し合い、彼らと猛獣との闘いといった「見せ物(スペクタクル)」を批判しているのだが、その理由は、それらが残酷で人道に反するというのではなく、そうした残酷な場面なら、キリスト教信者であれば、最後の審判における異教徒たちの阿鼻叫喚を想像するだけで、それらに勝るとも劣らぬ愉悦をうることができるという意外なものである。(106頁)

 『道徳の系譜』はずいぶん前に読んだが、神崎さんに注意を促されなければ、そんな箇所があったことさえ忘れたままだっただろう。この奇妙な論理に引っかかりながら、しかし『ホテル・ルワンダ』を見始めて直ぐ、僕はまだ自分が人間について何もわかっていなかったことを教えられたのだった。テルトゥリアヌスはただ、人間の本性について、包み隠さず(というよりは、隠さなければならないという自己検閲がそもそも存在しない時代の場所で)書いていただけだった。

 それにしても、神崎さんがフーコーの人生に見出す「他のように考え、固定された何者でもない」という(おそらくドゥルーズのいう<高次の一貫性>としての)原理は、ひとことで片づければ、いわゆる「達人倫理」の一種であろう。それはむしろ、多くの平凡な人びとがもっとも遠ざけようとしている事柄でさえあるだろう。そうだとすれば、哲学を生きるとは、何を意味するのだろうか。この素朴な問いを手放さないでいよう。