意識の自然

 谷徹『意識の自然:現象学の可能性を拓く』(勁草書房)を読了。久しぶりの現象学。爽やかに晴れ渡ったゴールデン・ウィークの数日間をかけた甲斐は、じゅうぶん以上にあった。2段組で730ページを超える超重量級の本格的な研究書であるにもかかわらず、おそらく専門家でなくても読める現象学の本として、今後まず第一に推されるべき傑作だと思う。
 「2001年宇宙の旅」と「惑星ソラリス」に触れながら、20世紀をおそらく「希望」の世紀とみたフッサールとともに、21世紀へのかすかな「希望」を語りつつ、自著を「現象学を、その成立・体系・可能性という三つの側面から解明しようとする試み」と格調高く措定する「まえがき」に始まり、本書は全編にわたって気概と集中力にあふれた叙述に貫かれている。とはいえ本書には、一昔前の現象学解説書にありがちだったように、現象学に固有の専門用語で素人読者をケムに巻くたぐいのところは一切ない。叙述は驚くほど平明、明晰、かつ緻密であり、真剣な読者であれば現象学の入門書としても読めるかもしれないほどだ。
 構成面での「成立・体系・可能性」という三位一体とともに、内容的でも「在ることの不思議」(自然)、「私の不思議」(自我)、「他人の不思議」(他者)という「哲学的三体問題」に真正面から取り組んだ本書は、すぐれた意味で<体系的>であり、いわゆる完成度の高い書物である。だがそのことが、それゆえに、現象学の未決の可能性を拓くというこころざしを裏切らない数々の挑戦的な考察につながっているのは、逆説的だが当然であるかもしれない。経験そのものに徹底して内在することによって、その限界において外部をかいまみるという現象学の方法を、本書は文字通りに実践してみせているということだ。
 本書の豊かな内容をかいつまんで紹介するだけでも相当な字数が必要なので、ここではやめておくけれど、たとえば以下のような問題を常日頃から考えている読者にとっては、たくさんのかけがえのない示唆を得ることができるだろう。

・「事象そのものへ」って、結局、どういうこと?
・超越論哲学と自然科学との関係は?
・世界の内部に存在するものと世界そのものの存在との関係は?
・(上の問題の変奏だが)主体を死を経験できないというけれど、では死にゆく主体が経験していることは何なの?
ハイデガーは現存在から出発して、現象学的還元を行なわないのに、どうして現象学と言えるのだろう?
・超越論的主観そのものの発生現場はつきとめられる?
現象学にとって歴史とは何か? 主観と歴史との関係は?
フーコーハイデガーの言語偏重と歴史決定論から悪しき影響を受けすぎてはいなかったか?(そしてある種の社会学者は、厳密な哲学的反省なしにそれに乗っかって、ダサく「構築主義」という旗を振り回してはいないか?)
・ハナ・アーレント『人間の条件』における〈誕生〉概念とハイデガー批判との関係。
ジュディス・バトラーの〈身体論〉を、言語行為論によって補強された超越論的現象学として読むならば?
フッサールが「西欧中心主義」だっていう批判は、たぶん当たっているんだろうけど、なんとなく安直にすぎないか?
……等々。

 これは僕の場合だが、本書を読んでもやもやが晴れたり、思考を一歩先に進めることができた数々の論点の一部にすぎない。たぶん読者はそれぞれの問題についてのヒントを、少なからず本書の中に見出すことができると思う。

 同じ著者には、もっとコンパクトな入門書(『これが現象学だ』講談社現代新書)もあり、これも手堅く、良い出来なのだが、ある意味で『意識の自然』のほうが、あらゆる問題を省略せずに事細かに書いてくれている分だけ、わかりやすいという気もする。