『孤高の人』と『岳』、山の本

 大学一年生の冬、11月の終わりに登った谷川岳は、青く晴れ渡った空を映し出してか、蒼白の雪と氷に覆われていた。あるいは水気を多く含んでゆるんだ雪が蒼く見えたのかもしれない。山稜から一の倉沢を覗き込むと、蒼白い岸壁が一気に漆黒の影へと落ち込んでいく光景が見えた。冬山とはなんと美しいものか、と息を飲んだ。この軟弱なおれがどうにか辿り着ける山でさえそうならば、ヒマラヤの高峰に登り立つ者たちには、どれほどの峻厳な美が見えることだろう。
 ……そんな憧憬の気持ちはなくなってはいないけれど、実際には制御不能なまでに柔弱化を極めてしまった現在のワタクシには、せめて身体を鍛え直して、何年後かにはエベレスト街道ぐらいは歩きたいと夢想するのがやっとのこと。そんな気持ちが脈動的に高まると、『山と渓谷』や『岳人』を買って、山岳写真のページをぼんやり眺めている。そして、もし時間に少しの余裕があれば、新田次郎の山岳小説を読み返したりしている。
 僕がこれまでに読んだ小説で、ただひたすら純度100パーセントで「面白い!」と叫びたくなったのは、何を隠そうエドモンド・ハミルトン『スターキング』これ一冊なのだが(高校時代、畳に寝転がりながら、息を切らせるようにページを繰っていたことをありありと想起できる)、それに勝るとも劣らず血湧き肉躍り、しかも『スターキング』にはない深くシットリした気持ちも味わえるのが、新田次郎の山岳小説だった。新潮文庫で読めるものはだいたい読んだはずだ。どの作品にもそれぞれの趣向があって愉しいが、私的ナンバーワンはやはり『孤高の人』。北鎌尾根を独り歩く加藤文太郎の姿を、いまも僕は直ちに思い浮かべることができる(もちろん想像図なのだが)。強烈な印象として残っているのは、加藤が道を歩いているとき、向こうから集団がやってきても決して道を開けなかった、というところだ。これは僕も実践している。特に歩道を歩いていて、我が物顔の自転車が(正確には、人間が自転車に乗って、だが)走ってきたときは原則としてよけない。よけるべきではない、と思う。歩道を自転車で疾走するということは不正である。それに対して歩行者が屈するべきではない。それは、小さなこととはいえ、不正を見逃し、それに荷担することだ。だから僕はよく自転車に乗った連中とぶつかるが、そういうときはとっさに肘を突き出して身を守るのがよい。
 話が横にそれたが、登山史には「単独行者」の系譜というものがあり、日本の比較的近いところでは、アルプス三大北壁単独登攀の長谷川恒夫(『山に向いて』福武文庫)や山から極地へと転じた植村直己(『青春を山にかけて』ほか)について、TV等で見た記憶のある人もいるだろう(もちろん、両者とももはやこの世にはいない)。北鎌尾根に逝った『風雪のビバーク』の松濤明や、夫婦二人だけで奥多摩に暮らしながら極限のクライミングに挑戦し続けてきた山野井泰史・妙子夫妻(『垂直の記憶』山と渓谷社)にも、単独行者の相貌がある。

 おっと、新田次郎の話がまだだった。ここで私的おすすめ長編のベスト5を発表しておきます。『孤高の人』に続いて、第2位は、マッターホルン北壁に挑む実在の女性クライマー二人を描いた『銀嶺の人』(衝撃のラストシーンには、それこそ涙も追いつかない)、第3位は、馬鹿な精神主義かつ形式主義で子どもたちを大量に遭難させた学校・教師たちにやり場のない怒りが湧き上がる『聖職の碑』、第4位は鬼気迫る遭難描写にページを繰る手が止まらない『八甲田山死の彷徨』、第5位は播隆上人の苦悩に満ちた人生を重厚に描ききった『槍ヶ岳開山』

 ところで、新田次郎の話をしたのは、藤原正彦つながりというわけではありません。むしろ、山岳救助ボランティアを主人公にしたマンガ『岳』(石塚真一、小学館)を読んだのが、直接のきっかけであった。これはなかなか良い。絵はそれほどうまくないが、主人公のキャラにもストーリーにも深みがある。象徴的なのは、といってもこれは僕の深読みではずしているっぽいのだが、ある登山者が雪山で大きな裂け目に落ちる様子の描写だ。いわゆる迫力を出そうとするなら、巨大な裂け目の中へ落ち込んでいく当人の視線から絵を描きそうなものだが、そうではなく、あたかも第三者がその瞬間を偶然目撃したかのように、登山者がふっと消えてしまうのだ。このアンチ・センセーショナリズムはじわじわ効いてくる。著者はかなり豊富な登山経験の持ち主のようだが、たぶん自分自身が実際にクレバスなどに落ちたことはないのだろう。これまでの、山を描いたマンガとしては、村上もとかの連作集『南西壁』『ザイル』『岳人列伝』がさすがの力強さで良かったが、『岳』にはまた別の味わいがある。単行本の出るのが楽しみなマンガができた。