〈私〉の感情?――グレッグ・イーガンとテッド・チャン

 今日の午後は某社から出す共著の論集(社会学の教科書)のための研究会に出席。少人数の研究会とか読書会というやつにはとんとご無沙汰なので、ちょっと新鮮な気持ちになれてよかった。浅野智彦さんの感情社会学に関する示唆的な報告の冒頭にP・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』中のいちエピソードが引かれていた――情動をコントロールする装置が常識化している世界で、その装置をあえて「抑鬱」を引き起こすようにセットするという話――のを読んで/聞いて、現代のハード&スペキュレイティヴなSFの双璧がそれぞれに類似テーマの、しかし方向としては正反対といっていい短編を書いているのを思い出した。グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」(同名短編集所収)と、テッド・チャンの、題名は忘れたが「美醜失認装置」というやつが出てくる作品(『あなたの人生の物語』所収)である。

 イーガンとチャンは、作品のテンションの高さという点ではどちらも引けをとらないのだが、この作品に限らず雰囲気はかなり対照的だ。イーガンには、ひとことでいえば<ヒューマニズムの臨界>を見極めるという感覚があると思う。かつてのウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』を何段階も突きつめたような感じで、人格が単なる情報に還元されつくしても残る<何か>、いやむしろ人格が単なる情報空間内の事象にしかすぎないということを前提として初めて理解しうるような<何か>に思考が突き進んでゆく。もしかしたら、著者自身はそんなものはないことを示そうとしているのかもしれないのだが――哲学的にはダニエル・デネットを参照したりしているので、その疑いは濃厚なのだが――アウトプットされた作品には、どうしても消し去れなかった<ヒューマンなもの>の芳香が漂っているように思えるのだ。さらにそれを思いっきり粗雑に言い換えれば、<左翼>ということになる。別にひねった意味でなくても、アメリカにおける人類多起源説と人種主義の問題をパロッて異様な迫力を生み出した「ミトコンドリア・イヴ」(『祈りの海』所収)あたりは、最良の意味での左翼センスが充溢している。

 で、そのイーガンが、感情を自由にコントロールできるテクノロジーが常態化した世界を描いたのが、「幸せの理由」なのである。そこで、イーガンは、最終的にそのようなテクノロジーに対して「否」を突きつけている。もちろん、単純にではなく、あらゆる留保と逡巡の果てに、であるとはいえ。その理由は、作品の中では必ずしも明瞭には語り切られなかった印象があるが、これは僕が忘れているだけかもしれない。かもしれないが、さしあたりはその印象/記憶から考え始めてみてもよいだろう。たとえば故ロバート・ノージックは、『アナーキー・国家・ユートピア』の一節で「経験機械」というまがまがしくも魅力的なものについて語っている。これは現在では「マトリックス」みたいなものと考えておけばよろしい。昏睡状態でその機械につながれた人は、あらかじめお望み通りにプログラムされた素晴らしい人生を「経験」することができるのだ。それは、映画のマトリックスとは違って、別に誰かに操られるといった話ではなく、人が自らすすんで繋がれることができる機械なので、全体主義の悪夢といった問題は生じない。リアルに考えれば考えるほど、よほど現実の人生に満足しきっているという人でなければ、経験機械に繋がれてみたいという誘惑に引っ張られてしまうのではないか。ノージックはそれに対して、道徳的な難癖としてではなく、真正の倫理学的観点から、やはり「否」をつきつけていた。記憶で引用するので不正確だが、だいたいこんなことを言っていたと思う。<経験機械の問題点は、あなたに代わって機械があなたの人生を経験することになる、ということだ。> ぼくは、ノージックの哲学的立場は、この一節に集約されていると思う。

 それと対比すれば、テッド・チャンは要するに<右翼>である。チャンの作品には、ウヨクならではの面妖さが充溢していて、イーガンのような高邁さや爽やかさ――読後に思わず遠い目をしてしまう感じ――はまるでないけれど、自分の中に何か得たいのしれない別の生き物が勝手に住み着いて、次第に成長しているかのような、不快きわまりない、しかし知的に身震いするような感覚を押し付けられるのだ。
 上記「美醜失認装置」の話もそんな他では味わえない読書体験をもたらしてくれる傑作である。美醜失認装置とは、読んで字の如く、人間の顔を見ても「きれい」とか「ブサイク」とかの感覚が生じないようにさせる装置である。この装置をつければ世の中から容貌にもとづく差別がなくなるというわけで、アメリカで推進運動が起きる。当然、それに対する反対運動も起きて、一種のディスカッション・ドラマとして短編は構成される。この小説自体ももの凄く面白いのだが、ぼくが最初に読んだときに少々ビビったのは著者によるあとがきで、そこでチャンは容貌差別の問題を生真面目にとらえていることを告白し、もし美醜失認装置が実際にあったら、自分はそれを使用してみたいと、はっきり書いているのだ。
 これが本気なのか、それともそこまで含めてSFなのかは、わからない。同じように、“天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡”を、とりわけ主人公が宗教的(=キリスト教的)啓示に打たれる瞬間をすさまじい筆力で描きつくしたヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」も、どう読んでも著者自身が狂信的福音主義者でなければこんな迫真の描写はできまいと思ったり、いやいやこれこそが煮ても焼いても食えないSF的狡知の醍醐味なのだと思い直したり……。まったく一筋縄ではいかない作家なのだ。