見田宗介『社会学入門』ほか

 御大・見田宗介さんの最新著。これは不思議な本だ。ある意味で非常にオーソドックスな社会学史をふまえた近代化論が展開されているのだが、全体としては見田宗介真木悠介の作品としか言いようがない感触に包まれている。個別の論点としては、<他者の両義性>と<関係の重層性>をまず認めてしまうことで、リバタリアンコミュニタリアンのような二項対立への傾斜を緩和することを提唱している点が重要。これも一見非常に地味な論点だが、そんなのあたりまえじゃんと思って流してはいけない。二項対立はつねに回帰してくるし、知らぬ間に脳髄を冒しているものなのだから。

 この点に絡めて言うと、近年のフェミニズムに対する攻撃の中で、高橋史朗さんのような人は自分たちを「保守派」(あるいは「良識派」)と呼び、「フェミニスト」や「ジェンダーフリー」論者と対置するが、フェミニズム自体がそんなに一枚岩ではないのだし、たとえば「家族」の理解をめぐっても深く相異なる立場がある。二項対立、すなわち安易な「敵・味方」図式にはまりすぎることは、いつしか自らの足下を掘り崩す。その意味では、佐藤文香さんも『論座』で指摘していたが、フェミニズム陣営からの「バックラッシュ派」「バッシング派」といった敵への名づけも、便宜上必要なラベリングであるとはいえ、そのような図式化に対する自己批判的な視点は維持しておくべきだろう。

 見田宗介真木悠介に話を戻す。ぼくが一番好きな見田/真木さんの本は、第一位が『時間の比較社会学』、第二位が『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』だが、前者については、社会学というものの一つの到達点であるとともにその限界を示す作品、という気がしている。思いっきり乱暴に言えば、図式的にきれいすぎるのだ。この点については、『講座社会学1 理論と方法』所収の佐藤俊樹論文を参照してほしい。とはいえ、人間世界の構造的変化を壮大な図式として描く視点の水準設定自体は、見田さんが後に『自我の起源―愛とエゴイズムの動物社会学』で、日本の社会学者としてはいち早く(孤立無援に?)社会生物学/行動生態学とリンクしたことを考えれば、なんたる揺るぎなき一貫性かという感慨に打たれもするのだが。

かつて東大の駒場キャンパスには、外部から「マキスト」「ミタリスト」と揶揄的に呼ばれる見田さんの信奉者の一群がいたが、現在の大学生に対しても『社会学入門』は同様の浸透力をもちうるのだろうか。この本は駒場と共立女子大での講義をもとに書かれているそうだが、学生たちはここに連ねられた言葉にタマシイを揺さぶられたのだろうか。そのあたりを知りたいと思った。