コロキアム「法・政治・社会哲学」始まる

2006年9月7日

 いよいよ新学期。大学界隈にはいつのまにか学生たちが溢れていた。ぼくもいままでのアパート⇔図書館往復ライフからようやく抜けだし、今日が初日の"Colloquium in Legal, Political and Social Philosophy"に出席した。NYUはどの建物に入るのにもいちいちIDカードを見せなくてはならず、部外者が入り口付近でちょっとでも立ち止まっていると、たちまち守衛に呼び止められる。そんなわけで間違った建物に入って怪しまれたりしながら、ロー・スクールのビルの9階の会場に入っていくと、窓からマンハッタンの町並みがよく見通せて、軽くすっとした。考えてみれば北向きで、かつ全く見晴らしのない古いアパートの2階に住んでいて、ほとんど観光スポットらしいところにも行っていないので、マンハッタンに来て1ヶ月以上になるのに、まだ高いところに登ったことがなかったのだった。

 このコロキアムはNYUのロースクール主催で、トマス・ネーゲルロナルド・ドゥオーキンジェレミー・ウォルドロンという三人の先生方がホスト役となり、毎回外からゲストを呼んで議論をするというもの。ゲストのペーパーはあらかじめウェブにアップされ、参加者はこれを前もって読んでくるように言われる。学生で単位がほしい参加者は、別の時間にドゥオーキン教授のセミナーに出席し、予習・復習のセミナーをやるみたい。ぼくも最初、それにもまぜてもらおうかと思ったが、あまり欲張ってもへたばってしまうと思って断念した。

 今回のスピーカーはビル・タルボットというワシントン大学の先生で、「帰結主義の再興に向けて」というテーマでの発表だった。といってもペーパーはみんな読んできているという前提なので、ゲスト自身が最初にしゃべるという日本流はなし。横に座ったウォルドロン教授が滔々とペーパーの要点をまとめ、論点も出して、まずはそれにタルボット教授が答えるという順番で進んでいった。

 上のペーパーを読んでいただければわかるが、J・S・ミルロールズも拾い読みしたことしかない正義論にはシロウトのぼくがあえて言うと、タルボット氏の草稿は正直何をやろうとしているのかがよくわからなかった。ミルや初期ロールズが権利の帰結主義的な正当化に失敗した、それを自分は克服したい。ただし戦略としては、非帰結主義的な議論をまるごと置き換えることを目指すのではなく、非帰結主義的な議論が権利の例外として置くような事柄(たとえば、殺人はいかんが、正当防衛は許される場合もある、等々)をうまく説明するような議論を帰結主義的に構築することをめざす、というやり方をとる。より背景的な構えとしては、ある理念を立ててそこから具体的な事例を斬っていくトップダウン型ではなく、個々の事例に関する我々の正当化不能な道徳的直観をたくさん積み上げながら理念をかたちづくっていくボトムアップ型を徹底させる。

 大枠はこんな感じだが、ネーゲルさんは「そもそも例外を包摂していくと帰結主義の優位を示せるのはなぜかがわからない」、ドゥオーキンさんからは「あなたが帰結主義的概念とみなすwell-beingだって、一定のautonomyをすでに条件として含んでいるのだから、帰結主義と非帰結主義とはそんなにくっきり分けられない。だいたい、どうして権利の帰結主義的理論をめざさなきゃならんのか、単に<より良い権利の理論に向かって>でよいではないか」と、かなり身も蓋もないつっこみが入っていた。会場からも、基本的だが的を射た質問が出ていたと思う。ある意味で論点が大づかみな議論だったけど、基本的な事柄を、わかったことにせずに、その都度議論していこうという率直な姿勢はよいなあと思った。

 夜、アパートに帰って、いつものように窓を開けていたら、いきなりクシャミが出てちょっと寒気がした。風邪をひいてしまったらしい。日本から持ってきた「ドリスタン」をお湯に溶かして、寝るまえに飲む。