ユルゲン・ハーバーマス

2006年10月5日(金)
 今日のロースクール・コロキアムのゲスト・スピーカーはユルゲン・ハーバーマス氏「公共領域における宗教」という題のペーパーがあらかじめ配られていたのだが、僕は日本語での仕事に専念していて、半分も読めないまま出席することになってしまった。何をやっているのかと情けなくなるが、もっと早くに原稿を出せなかった自業自得なのだから仕方がない。

そんな準備不足の上に、なにしろハーバーマス大先生の英語がまるで聞き取れない。調べてみるとハーバーマス氏は1929年生まれ、ということはもう80歳近い御老体だし、しかも英語での討論なので、さすがにゆっくり喋ってくださる。しかし会場からの速射砲のようなネイティヴ英語のほうがまだしも大筋は聞き取れて、それに答える大先生の話はほとんどわからなかった。みんなが笑ったところでもまるで笑えないという、ありがちなヘコむ場面も何度かあり、おのれの英語力の足りなさを(いつもとはいえ)痛感。

 そんなていたらくの中、発表原稿を読みながら、そして討論のかろうじて耳に飛び込んでくる断片を聞きながらぼんやり考えていた。今回のテーマ自体とペーパーの前半部分はすごく面白かったのだ。宗教と世俗的な理念との関係、ハーバーマス氏は後者を「自由と平等」に集約していて、「人権」を強調していない点が興味深かったのだが、いまそこを大雑把にまぜこぜにしていうと、宗教と人権との関係という問題である。
 といっても特別な視点を得たというわけではない。むしろ西欧史の教科書的な知識の再確認にすぎないのだけれど、この両者が本来対立関係にあったし、いまもある水準までは葛藤をはらんでいるという事実を、ニューヨークで日々あからさまに宗教的エスニックな諸々の出来事に接している経験を土台として、はじめて自分なりに実感できるような気がしたのだ。要するに、信じがたいほどの長期に渡る、文字通り血で血を洗うような宗教戦争の経験を経て、西欧の近代国家は、特定の宗教に拠らない、すなわち世俗的(secular)な調停案としての人権という理念を発明した。これは日本でよく見かけるような、「人権なんて宗教みたいなもの(≒たいした根拠はない)」というたぐいの言いまわしからは全く抜け落ちてしまっているものだと思う。宗教/世俗という、人権概念の本質を特徴づける対立軸がそこにはないのである。それではそもそも「人権」について考えたことにならないだろう。俗を超越した聖なるものに関わる宗教を、解体して俗に引き戻すのではなく(それは〈人間本性〉に照らして不可能だろうし、実際に後の社会主義国家は無惨に失敗した)、さらに上方に超越するものとしての世俗という逆説が、普遍的人権という理念に賭けられたものではなかっただろうか。

 もちろん、そのような超越の構想自体が、俗を超える聖という宗教の構図の反復にすぎないとはいえるだろう。もっと簡単な意味でも、超越的な理念などというものは、いったん創り上げたらそれでお終いというわけにはいかず、広い意味での信仰めいた欲動がそこに備給されない限り、一瞬たりとも維持され得ないだろう。しかし、その程度の意味では、人権のみならずおよそ「信じる」ことの対象はすべて「宗教みたいなもの」になってしまうのであって、そんなことを言っても何も言ったことにはならないのではないだろうか。別の言い方をすれば、そんな言い回しはせいぜい進化心理学者のものであって、社会科学者や哲学者のものであるべきではない、と思う。

 以上をふまえた上でなら、次のことは言えるように思う。現在、かつて西欧世界において、宗教を超える普遍性として構想された人権が、より広範な宗教群との比較において再び特殊化され、西欧限定の特殊な思想として枠づけられている。それも無理はないので、もともと宗教戦争といったってキリスト教という大枠があって、その内部での宗派間の対立にすぎなかったので、その意味では人権の理念が根本的に広い意味でのキリスト教的なるものに浸透されているのは当然のことなのだから。メチャクチャ抽象的(というか大雑把)な思いつきとしてメモっておくなら、ここで試されているのは、ここから人権がこの再−宗教化をくぐり抜けて再びより大規模な調停案として鍛え直されるか、それとも歴史的人権概念とは別に、西欧世界に限定されない「宗教戦争」(「文明の衝突」云々に丸め込まれているわけではないが、ここではあえてそう言っておく)を調停するような何かを、ひな形もなしに、人類が創り上げることができるのか、ということだろう。つまり、いわばひとつの宗教という地位に引き下げられた人権の理念をも含めて、諸宗教間の対立をさらに「世俗」の方向へ超越するような理念を見いだせるのか。それとも、そんなものは必要でなく、グローバリゼーションの肯定的な作用にすべてをゆだねればやがてはうまくいく? それは信じ難いことだが、人権を超える理念が創出される未来も同じくらい見通し難いことは認めざるを得ない。僕としては、宗教→世俗→宗教→世俗→……という不安定な循環運動を経巡りながら、人権の理念を(疑似)上昇させながら、時々に応じて有効利用していくしかないように思うのだが、具体的にこうすればいいという方策はもちろんないのだ。

 ところで、このコロキアムではほぼ毎回、それぞれに異なる文脈で、人々の価値観の対立を象徴する現象として同性婚や妊娠中絶の問題がとりあげられる。日本の法哲学会ではどうなのだろうか。これらの問題がそれほど差し迫ったものとして取り上げられることはないような気がするのだが(僕が知らないだけだったら、後で訂正します)。それは単に、アメリカで実際にそれらが政治問題になっているからだとも言えるけれど、では日本ではなぜそれらが国政選挙において争点とならないのかを考えれば、のんびりと文化の違いなどといってすませていられるようなことではないはずだ。その意味で、かつて井上達夫氏が敢然と妊娠中絶について(アメリカ右派流の素朴なプロライフと少なからぬ人々に受け取られるようなやり方ではあれ)論じたことはやはり偉かったと思う。僕はそのとき井上氏の立論を根本的に批判したし、そこでは若気の至りでいささか下品=幼稚な罵倒の言葉遣いまでしてしまったが(いまならそんな要らぬことはしない)、しかしその時点でさえ、井上氏の思考の仕方には(もちろん他の著作も含めて)敬意を抱いていた。それは、さらに昔、フェミニズムの理解をめぐって瀬地山角氏を厳しく批判したときも同じだったのだが、そのことはあまり(周囲からも、そしてたぶんご本人たちからも)理解してはもらえなかったような気がする。でも、よほどの歪んだ暇人以外に、いったいどこの誰が、じつは取るに足らないと思っている相手を、全身全霊で思いっきり批判したりするだろうか。

 コロキアムはロー・スクールの二つあるビルのうちのひとつ、その9階にある会議室で行われる。北側の大きな窓から、ワシントン・スクエアを挟んで、その向こう側にエンパイア・ステート・ビルディングを中心に、ミッドタウンの街並みが見える。午後4時からはじまるコロキアムが6時頃にさしかかると、暮れなずんだ景色にエンパイア・ステートがくっきりと浮かび上がって、なんとも綺麗な風景になる。ちょうどその時間にブレイクになるので、無料でふるまわれるナッツを囓りながらそれをぼんやり眺めているときは、ニューヨークに来てよかったなという気分になる。外国暮らしは気持ちの浮き沈みが激しいが、時に自分が何者でもないという感覚を得られることは、なんという解放だろう。それに、これは日本にいるときも思ったことだけれど、何ら義務を負わない学生という立場で勉強できること以上に贅沢なことがこの世にあるとは思われない。