ドレミの歌

 五番街を歩きながら考えた。日本語の「ドレミの歌」はいかがなものか、と。♪ドはドーナツのド/レはレモンのレ……という1番を受ける2番の出だしは、♪「ど」んなときにも/「れ」つを組んで……である。なぜ、どんなときでも列を組まなければならないのかという問題も確かに無視はできないが、いまは措いておこう。僕が指摘したいのは次の点である。ドーナツを「どんな」、レモンを「列」で受けたということは、当然それにつづく「♪ミはみんなのミ/ファはファイトのファ〜」に対しても、「みんな」や「ファイト」ではない別の言葉をもってくるはずだ……。この歌を真摯に聴く者は、誰もがそのように予測し、作詞者の志の高さに畏敬の念を覚えると同時に、いったいどんな斬新な言葉が「ミ」や「ファ」をさらに展開してくれるのだろうと、固唾を飲んで前傾姿勢をとるだろう。ところが――! そこにもたらされるのは、「♪みんな楽しく/ファイトを持って」というフレーズなのである。1番の「みんな」は2番でも「みんな」であり、1番の「ファイト」は2番でも「ファイト」なのである。われわれはここで前傾姿勢のまま、もって行き場のない、憤りとも虚脱ともつかない感情に、思わずモノクロ画面になってしまう。つづく「♪ソは青い空/ラはラッパのラ」に対応する2番のフレーズに至っては、「♪空を仰いで/ランララララララ〜」という、ソラはまたしても繰り返し、ラはなんだかよくわからないスキャット(というのでしょうか、こういうのも)で音数を合わせてごまかしたとしか思えない、手抜きの歌詞になってしまうのである。
 いったい作詞者は、1番と2番の関係をどう考えていたのか。「みんな」と「みんな」で受けること自体を責めているのではない。シンメトリーの美学というものは確かにある。しかしそれならそれを貫いて、2番は最初から「♪ドーナツ食べたいときでも/レモンを囓って〜」といったように完璧を期するべきではなかったか。あるいは逆に、同じ語句の反復を潔しとしないなら、どんなときでも列を組んで、その後どうするのか、みんなやファイトではなく、聴く者が思いもかけなかったような言葉の魔術をみせてくれるべきだったはずだ。魔術とは到底言えないが、蛮勇を承知でわたしが一例をお示しするなら、まあこんな感じですか。「♪どんなときでも/列を組んで/見つめ合おうぜ/F★CKIN' ROCK'n ROLL〜」……だめか。
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