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木星の渦のなかへ

 最近の日常。ブルックリンお散歩ツアーに参加。あまりの寒さに風邪を引く。翌日、ニューヨーク・シティ・マラソンを見物。一瞬だがヌデレバ選手を見られて満足。だがそれより驚愕したのは、車椅子の部で、みんな競技用のハイテク三輪車に乗っているのに、そのなかにどうみてもそこら辺に置いてあるような平凡な二輪車椅子で、しかも結構良いタイムでゴールに迫っていくおっさんがいたこと。どういう根性しとるんじゃ。見物しているこちらは、あまりの寒さに風邪をこじらせたというのに。その後、約二週間、今日に至るまでどうも喉がおかしい。しかもアパートのボイラーがまた壊れたらしく、今週は暖房なし。たまたま暖かくなったからいいようなものの、これから極寒の冬になだれ込むというのに、どうなるのか……と思っていたら、ついさっきなぜか暖房が入った。これで完全に直ったならいいのだが。先日は市立図書館の「科学とビジネス分館」に、ジェームズ・ワトソンの講演を聴きに行った。予想通り、中身はまあほぼ思い出話に終始したけど、世界遺産級の人物を生で拝めたので良し。その後、あるライターのブログで、スティーヴ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式でやったスピーチの邦訳を読み、じわーんと来る。「Stay Hungry, Stay Foolish」もうごちゃごちゃ言うな、日本の若者にはどうしたって、「夢を持つこと」が必要なんだ。物語を食って生きるのが、たぶんホモ・サピエンスとして孤独な道を歩み始めて以来の、おれたちの本性なのだから。もちろん、本気のかけらもないJポップのくずみたいな歌詞が吐き散らすようなもんじゃない、ほんものの夢が必要だ! 若者について発言している学者の大部分は、「人間は大学に行くのが当たり前」という生理的感覚で生きている気がする。ところで、そのブログには、何年か前、マックのことを同僚に話したら「マックなんかもう駄目ですよ」とせせら笑われたという体験が書いてあった。書き手の女性は、「OTAKUな人って、なぜ相手が詳しくないことを決めつけるのか」ぐらいの上品な憤懣しか書き残していなかったが、僕は大澤真幸のオタク論などを思い起こし、ここにはけっこう重要な問題が指摘されているような気がした。大澤によれば、世界のどうでもいいような細部に拘泥することで、世界を一望できる特権的な視点に立つ、というのがオタクの逆説である、というような話だったと思う。これをもっと純化して、そもそも世界を一望したいという欲望そのものをオタクの本質と定義してしまおう。するとオタク特有の「陰謀史観」への傾斜や、「自作自演」に対する妙に<道徳的>な反発も整合的に説明できるだろう(もちろんこの場合の<道徳的>とは、心理的機制としては、自分の不安に対する反発に正当性を与えるための自己欺瞞にすぎないのだが)。だがそんなことはどうでもいい。世界を一望したい、俯瞰したいという欲望がオタクなら、ある水準で機能したマルクス主義はストレートにその先駆形態だったといえるのではないか。もちろんそんなこともどうでもいい。どうせ、ある一点から世界を一望できるなどという思いこみは錯覚にすぎないのだ。それに対して、物事をいろいろな角度から見ればみるほど、その人は世界に内在していく。そして世界は次第に不透明になっていく。これは、ただ何も見ていないのと区別がつきにくいから厄介だ。もちろん議論してみれば、後者は一瞬で結論を出して話が終わってしまうので(「要するに〜ってことだよ」)、すぐにボロが出るのだが。僕の畏敬するある社会学者(僕より1歳だけ年長)が、院生の時、「○○さんは頭が悪いから、物事をいろんな角度から見られないんだよ」と、その○○さんの友達の面前でさらっと言い放っているのを横で聞いていて感服したことを思い出した。久しぶりにそんなブログめぐりをしていたら、なぜか田宮二郎について読む羽目になり(僕は『白い巨塔』を毎週観ていたし、もちろん『クイズ・タイムショック』も、それに『高原へいらっしゃい』も観ていた、ついでに山田太一によるその続編ともいえる『緑の夢を見ませんか』で三田佳子にイカれた)、そこからの流れで昔のTVドラマやアニメのことが書いてあるサイトをいくつか読むことになったのだが、その過程で『好き!好き!魔女先生』の主役の女性のその後を読み、暗澹たる気持ちになる。そして不謹慎にも、よしもとよしともの『好き好きマゾ先生』を思い出し、無性によしもとよしともが読みたくなった。よしもとよしともが好きか嫌いかは、なんとなく人間を大きく分類するに足る軸になる気がする。「君の世界は正常に機能しているか?」
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