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ベートーベン交響曲第七番

 『のだめ・カンタービレ』TVドラマ版上野樹里が観たい……)の主題曲はベートーベンの交響曲第七番だそうですね。あれはベートーベンの交響曲のなかでは最もとっつきやすくで、三番や九番に次いでダイナミックで、しかし格調も決して低くはない曲だから、「クラシックに縁がなかった人も引きつける」という『のだめ』の趣旨からして、実に当を得た選択だと思う。

 僕がこの曲(七番)を初めて聴いたのは、たぶんヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルが来日してベートーベン・チクルスをやった1977年だったはずである。当時中学生だった僕は、S席が何万円もするというチケット代にぶっ飛び、大人の世界というやつはスゲーとなにやら打ちのめされたような気がしていたのだが、ともかくNHK-FMで放送された全曲を愛用のカセット・デンスケ(TC-2890SD)に録音(「エアチェック」!)して聴いたのだった。しかしそのときに印象に残ったのは三番で、なんという雄壮な曲だろうと感嘆したものだった。七番のほうはあまり覚えていない。

 そんな僕が七番の素晴らしさを強烈に焼き付けられたのは、言うまでもなくジョン・ブアマン監督の怪作にして傑作映画『未来惑星ザルドス』によってである。ずっと前にも書いた気がするが、ある昼下がり、東京12チャンネル(現テレビ東京)の気の抜けた枠でなげやりに放映されたこの映画をたまたま見始めた僕は、ラストシーンが終わるときにはすっかり痺れてしまっていた。そしてこの作品で全編に鳴り渡るのがベートーベンの交響曲第七番、その第二楽章なのである。たぶんこのルートで七番と出会った人はかなりたくさんいるに違いない。

 もう一つよく覚えているのは、僕は一橋大学故・良知力さんの生前最後の学期の講義を聴いたのだが(ただし体調を悪くされて、12月以降はすべて休講だったような気がする)、彼が亡くなったときの学葬でもこの第二楽章が流されていたことである。弔辞を読んだのは藤田省三氏だったと思うが、記憶はおぼろげだ。ついでに(というと語弊があるが)、そのときゼミ生代表として講堂の壇上で献花した上級生の一人の訃報を数年前に聞いた。僕と1、2歳しか違わないはずなのだから、40歳になるかならないかで死んだことになる。もう20年近く昔、僕の大学院での指導教官は48歳で亡くなったが、そのときには実感できなかったこと、つまり周囲の人間が少しずついなくなっていく、というあの感触を、ここ数年、否応なく味わうことが増えてきた。

 僕がよく聴いてきた七番は、超名盤として定評のあるカルロス・クライバー指揮/ウィーン・フィル盤(五番とのカップリングでたいへんお得)だが、つい最近、クライバーがバイエルン国立歌劇場管弦楽団を指揮した1982年のライブ盤がSACDハイブリッド版で出ていることを知り、早速購入。
 いやたしかにこれは凄い。第一楽章は、ある意味で堅実な印象なのだが、何か得体の知れない計略を秘めているかのような刻み方。第二章は非の打ち所のない優美さ。しかし真の衝撃は第3楽章で、これはもう何と言っていいかわからない、圧倒的なグルーヴ感の奔流に翻弄され、全身をつかまれてブン回されているかのような快感にただ酔い痴れることしかできない。第4楽章もその延長上で、一気に突き進み、一気に終わる。聴衆もすぐには拍手することができない。あまりの出来事に全身をそばだてて聴くことに集中し、疲れ果ててしまったのだろう。だが一呼吸置いてから挙がる拍手とブラボーの歓声は、お仕着せでない、本物の声である。

 ベートーベンは僕にとってはただもう「グルーヴ感」の作曲家である。あの大地、風、人間の激情と理性、すなわちすべての自然が渾然一体となって、どことも知れぬ場をうねりながら疾走・上昇していく感覚は、彼以前の作曲家にはもちろん、ブルックナーにもマーラーにもリヒャルト=シュトラウスにもないものだ。もちろん、妙に箱庭的な伝承芸能に成り果てた最近のロックには望むべくもない、座って聴いてなどいられないような極太のグルーヴ。実際、ベートーベン本人も、指揮台でしゃがみこんだり、飛び上がったりしながら演奏していたというが。
 ただ、クライバーのこのライブ盤を、七番を初めて聴く人に推薦するのは躊躇する。こんなとんでもないものを最初に聴いてしまったら、いろんな演奏を聴いて比較するという、クラシックに固有の楽しみが味わいにくくなってしまうかもしれないから。