宗教右翼、ノリの良い左翼

 金曜日の午後は"With God On Our Soul: George Bush and the Rise of the Religious Right"というドキュメンタリーを観に行った。題名通り、ブッシュ父の登場以降、アメリカンの宗教右翼が急速に政治的影響力を持つに至る過程を追った作品で、元々は会員制公共放送のPBSでシリーズとして放送されたもの。現在の大統領G・W・ブッシュの最大の支持基盤といっていい福音派プロテスタントの要職にある人々が次々に登場し、ブッシュを賛美する。上映後に制作者(監督?)のDavid Van Taylor氏が出てきて質疑応答をしたのだが、登場早々、司会者が"Thank you for..."と言いかけて一瞬言い澱んだところに、"...for making that depressing movie?"とクラいジョークを飛ばす。その後、会場からは、宗教右翼の側に寄り添いすぎではないかという趣旨の質問も出たが、「福音派の人たちも拒否反応を持たずに観ることができて、政治の現状について考えてもらえるようなものをつくりたかった」と答えていた。

 このビデオでいちばん興味深かったシーンは、彼が2000年の大統領選挙に出馬したとき、共和党の候補を集めたTVの討論番組で「最も影響を受けた政治思想家は誰?そしてその理由は?」という質問を受けたとき(しかし高級な質問をするなー)、堂々と「クライスト」と答えたところ。会場内が一瞬引くものの、なんとなく納得させてしまう。この人は、ほんとに単純な、<敬虔な>田舎者の一人なのだ。フツーの人なのだ、と思った。そして、そういうフツーの人が重大な政治権力を握ってしまうことの恐ろしさを改めて思った(たとえば、ネルソン・マンデラは、フツーの人ではない)。
 だが、政治家のエリート臭を嫌い、大衆性(日本流にいえば「おらが」何とか)に親しみを感じて祭り上げてしまう浅はかな習性の罪はいうまでもなく大衆自身にある。しかし同時にいうまでもなく、大衆を責めても仕方がない。それは長梅雨や日照りつづきを責めるようなものだから。現代のような時代には、大衆から標的にされやすい種類の人間が、いかに大衆から身を守るかという課題が、いよいよ重くなっている。だが、そのために最も有効な技術は民主主義だということは逆説ではない。大衆は必ず間違うが、その間違いを最小限にとどめ、修正しうるのは民主主義だから。

 マンハッタンに住んでいて何より良いのは、こういう「映画&トーク」的なイベントや講演会がやたらとたくさんあること。無料のものもけっこうある。そして無料なのにクッキーやピザ、飲み物が出たりする。僕はNYUにいるので、NYU絡みの情報が入りやすいが、他の大学や市民団体、行政主催の催しも数多い。ほぼ毎日、何かやっている。バークレーでもさすがにこうはいかなかった。
 特にクイア関係は活気があって、忙しくてこの日記には書かなかったけど、先日は「獄中で酷い目に遭っているトランスセクシュアル」についてのビデオ上映と討論にも行ってきた。性別再指定施術を受けておらず、ホルモン治療までしかしていない人たちの場合、MTFTSだと男性として扱われるので、収容先で他の受刑者たちから性的虐待を受けたり、ホルモン治療を中断させられたりするという被害を受けている状況を初めて知った。これは参加者10人前後の小規模な催しだったけど、ジュディス・バトラーダナ・ハラウェイといったスター学者が来ると、数百人規模の会場が満杯になる。前者の時には、開演15分ぐらい前に行ったのに、僕は中にも入れなかった(NY――だけではないのだろうが――はこういう場合の入場制限に厳しいようなのだ)。まあバトラーさんは日本でもお茶大の行動を満杯にしていたけど。
 おもしろかったのは、"Young Democratic Socialists"という団体のシンポジウムが二日間にわたって開かれたとき、僕はノーム・チョムスキーの講演を聴きに行ったのだが、チョムスキー大先生が飛行機の遅れで予定から1時間以上過ぎて会場(高校の講堂)に姿を表したとき、聴衆がスタンディング・オベーションで熱狂的に出迎えたこと。その翌日のガヤトリ・スピヴァックトークのときも明るい雰囲気だったし、他の催しのときにも感じるのだが、なんというか、やっぱりアメリカ人は左右を問わずノリがアメリカ。
 もうひとつ、このシンポジウムで改めて興味深かったことのひとつは、会場のロビーに置いてあったたくさんのパンフレット類のなかに、国民健康保険の必要を訴えるものがあったこと。それはアメリカにおいては立派に「社会主義」的主張なのだ。意表を突かれた気がするのと同時に、市野川容孝のポレミカルな小著『思考のフロンティア 社会』(岩波書店)で論じられていた「日本における社会という記号の退潮」と考え合わせて、新鮮なリアリティを感じた。