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猛スピードで母は

 近所のブックオフの105円コーナーで拾った長嶋有『猛スピードで母は』を読む。これは……良いですよ。ほんと。僕は小説については饒舌系の、すべてを説明しきってやるという感じの文章が好きなのだけど(まあ自分もわりとそういう資質だし)、逆に削ぎ落とし系というか、簡潔な言葉を無造作に並べただけという風情で、そのじつ世界の細部をふっと現前させているような文章に出逢うととても感心する。長嶋有の文章はまさに後者の典型で、エピソードの一つ一つはまったくたわいないし、「あるよね〜」と思わず頷いてしまう親密さはあるとはいえ、その程度のものにすぎないとも言えるようなものばかりなのだけれど、その積み重ねが実在の不透明さをしっかりかもしだしているのだ。芥川賞受賞の中編「猛スピードで母は」の全編を覆う「霧」のモチーフはそのことの自覚的な隠喩であるようにも思える。だがそれと同時に、濃霧のなかを突っ切って団地の壁に据えつけられた梯子を一気にのぼってゆく「母」の姿は、現実がただ退屈に静止した現実ではないということを読者につきつける。早朝の交差点を色とりどりのフォルクスワーゲン・ビートルが走り抜けていく光景も、夢かうつつかのあわいにあるがゆえの柔らかな美しさだ。もうひとつの中編「サイドカーに犬」も、素晴らしいタイトルだけでなく、やはり単なる意味論的可能世界ではない世界とはどういうものかを思い出させ納得させてくれる(哲学的には、単なる可能世界には細部がないのだという)という意味でまさしく小説の王道としての「現実を描いた」傑作。これを読んだら、むしょうに麦チョコが食べたくなった。
 ところで、本作は文庫本でも出ているが、僕が購入した単行本のほうが、佐野洋子の表紙も可愛くておすすめ。