水槽の中の脳

 ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』の巻頭に収められている超有名論文「水槽の中の脳」を読む。この論文に言及するほかの人たちの書いたものは読んでいたが、パトナムさん自身の論文を読んだのはこれが初めて。
 僕はこの話は「夢」問題と同じ種類の懐疑論を扱ったものだと思いこんでいたのだが(そっち方向の展開については、永井均の名著『翔太と猫のインサイトの夏休み』、およびきわめて出来の良い認識論の教科書である戸田山和久『知識の哲学』を参照)、実はもともとは言語とその外在的な指示対象との因果的結合の必要生を主張するための仕掛けだったということを知った。蟻が地面を這った跡がたまたまチャーチルの顔の絵に見えたとしても、蟻がチャーチルの肖像画を描いたとは言えない。そこには志向性が欠けているからである。ただし、志向性を個人の意図に還元し、したがって概念を個人の内面にある心的対象に還元することは、「指示の魔術理論」として否定される。このあたりの論証は僕にとってはいまひとつクリアーではないのだが、概念はある特定の仕方で使用された記号としてはじめて対象を因果的に指示するのだという。言葉が「使用」という社会的な契機において初めて意味を持つことと、それが外在的対象と因果的に結合するということが、いわば等根源的だとみなされる、ということだろうか。
 いずれにせよ、以上のような議論によって、「水槽の中の脳」はそのことを語り得ない、という結論が下される。なぜなら私たちが実は『マトリックス』的な水槽の中の脳であれば、水槽の外(であれ何であれ)の対象を指示することはできないからである。
 それにしても、噂には聞いて(読んで)いたけど、パトナムさんは笑っちゃうほど頭がいい。そしてアイデアマンだ。「水槽の中の脳」自体が秀逸な道具立てだが、〈お互いを騙し続ける2台のテューリング・マシン〉(柴田正良『ロボットの心』に印象的な解説あり)だの、お得意の〈双子地球〉だのといった思考実験が惜しげもなく繰り出されて、話が猛スピードで進む。その分、論証に粘りが足りない気がするし、もっと丁寧にゆっくり説明してほしいとも思うが、なにはともあれ、頭の良い人の文章に触れたときにだけ感じられる一種の酷薄な解放感、あのなぜか哀しくも爽やかな感覚を、久しぶりに感じることができた。