FC2ブログは、1ヶ月更新しないと、勝手に広告がエントリーに侵入してくるんですね。知らなかった。とっくに終わっていなければならない原稿二つ、毎日呻吟しているのだが、遅々として完成せず。。。そのうちの一つは、どうしてもフロイトのなぞりに終始してしまって、まだ誰も言えていないような要素をわずかでも入れるという最低限のことが全然できないのだ……。
最近読んで、考える刺激になった本はこれ。
精神分析の高級な理論書としては、「あえて理解を求めない(=実は自分もわかってない?)」的な臭みがたいへん少ないのがよい。たとえば、身体論の章では、「〈精神〉の分析なのに、どうして〈身体〉がかかわるの?」という、非常に基本的な問いを立てるところから考察を始める。その後の議論も、あくまで「
精神分析の内部にいる私たち」(p.193)というスタンスで進められていくわりには、「トーゼン知ってるでしょ、説明しないよ(=実はできないよ?)」という身振りは極力抑えられていて、話の筋は十分明晰(それでもやはり、ところどころではぐらかされる感はあるけれど)。とりわけ第7章「
死の欲動について
フロイトはなにを語ったか―
タナトス問題系の構築に向けて」における攻撃性についての話は勉強になった。道徳は攻撃性(←
死の欲動)に由来する。したがって、道徳にはそもそも暴力を止める権能はない……。
全体として、これ↓を読むときの参考書として好適。
しかし、ようやく最近実感できるようになってきたけど、
ラカンの
フロイト読解というのはしばしば
牽強付会すぎて、現代国語的にはムリムリの展開が目立つ。でも結果的に興味深い理論的含意が生じるから、なんとか許されるのですな。例えば、「部分欲動としての性はけっして統合されきらない」というあたり。
フロイトが、「自我が介入する前の部分欲動の水準では、愛憎の「憎」の面が位置づけられない」と言って、「だから愛と憎しみは部分欲動が性器体制に統合された後の話なんだ」ともっていく(「欲動とその運命」)ところを、
ラカンさんは強引に「部分欲動は統合され得ない、〈全体〉は〈部分〉の上ではなく傍らにある」という話に展開する。これを受けて、立木氏は人間における「身体」の非全体性・非完結性を言う。自己身体の全体像が、
鏡像段階を通じて得られるイマジナリーなものであるという例の議論ともつじつまが合うスリリングなオハナシで、それはよいのだが、でも
フロイトの論文そのものの読解としてはあまりにゴーマンであることは変わらない。うーむ、自分はこう考えるのですといえばいいところを、なぜ「
フロイトがこういっているのを、あんたらはわかってない」という説教にせねばならんのか、ということですな。
ジジェクはこの手の「
教条主義」が思考のブレイクスルーには前提として必要なんだという趣旨のことを言っていたはずだが、しかしこうまで見え見えの「その手」にどうして多くの人たちが素直に従ってしまうのか、やはりかなり気持ちの悪いことではある。