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デュルケームとトクヴィル

 今年は大学院の「基礎演習」という科目をもっていて、院生たちとともに社会学(およびその隣接領域)の古典・準古典をいくつか拾い読みしていく。そういうわけで、最初のテキストにえらんだのは、あまりにもオーソドックスに、これ。

自殺論 (中公文庫)自殺論 (中公文庫)
デュルケーム

中央公論社 1985-09
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 19世紀ヨーロッパの名著の多くにもいえるけど、論述をきれいに整理せず(著者本人としてはせいいっぱいやっているつもりなんだろうけど)、思考のうねりをそのまま文章化したような叙述がすばらしい。あっちへ行ったり来たり、留保つけまくり、ほとんど同じ文章が何度も何度も繰り返される。でもそれは、いまだなき一個の学問分野、言い換えると一個の新たな対象を画定しようという、とんでもない野心の反映なのだ。その対象とは、もちろん「社会」という得体の知れない何かであり、それと相関する限りにおける、「人間」という不可思議な実在である。

 『自殺論』を読むために、最近の研究書も読んどくかということで、まず手にとったのがこれ。

トクヴィルとデュルケーム―社会学的人間観と生の意味トクヴィルとデュルケーム―社会学的人間観と生の意味
菊谷 和宏

東信堂 2005-04
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 僕より6歳ほど若い著者の、さらに4年前の博士論文が元になった本だから、著者34歳前後の作品か。トクヴィルデュルケームという、言われてみれば並べて論じられることの少ない二人の巨星を、「神が失墜した世界のなかで、人の生に意味を与えるものは何か」「みんな同じ人間などというお題目を、なぜ信じられるのか」という根源的な問いと格闘した思想家としてつなぐ、その鋭利な問題意識とストレートな議論の仕方に、少々たじろぎつつも感銘を受けた。僕がアーレント『人間の条件』から受け取った「みんな同じ人間たちの均質な社会」という近代像を、よりモノグラフィックにきちんと跡づけた作業ともいえる。
 「みんな同じ人間」という観念を明示的に〈疑う〉のは、あまりにも危険な所作だろうか? しかし、ただ「人間」を繰り返すだけでは何も進められないところまで僕らがたどりついてしまっていることは、それをポストモダンと呼ぼうが呼ぶまいが、それとして否定しようがないではないか。「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いは、やはり最高に素朴な問いでありうるのだ(実際にそういうことを口にするやつがどういうやつかはまた別の話)。だから、フーコーの「人間の死」は空疎なレトリックなどではない。「幸福」という最高善こそがまさしく「管理」の相関物であること、もしかしたらそうでしかありえないこと、それこそがフーコーの剔抉した、というかアーレントがもっと直裁に何度も問題化したことだったはずだ。「管理」「監視」「権力」といった言葉を悪の代名詞として使う習慣をやめないと、かれらの問いは見えないのだが、これがそんなにたやすいことではないのは周知の通り。だから、あれほど大衆を軽蔑したアーレントも、「人間の死」を高らかに宣言したフーコーさえも、いつのまにか「悪い権力者をやっつけろ!」的フォーマットに収まる「いいひと」みたいな雰囲気に包まれてしまう。
 人を最も幸福にする権力こそが最もやばいのだ。フーコーさんの言っていたことを素直に読めば、そういう無茶苦茶なまでに身も蓋もない「真理」であることはほとんど自明じゃないだろうか。実は僕はフーコーをそんなに崇めてはいない。かれよりも、たとえばフロイトのほうが思想家としての格ははるかに上だろうと思っているのだが、それでもフーコーさんが何だか「いいひと」みたいに受けいれられるのはちがうだろう、と言いたくなることがたまにある。
 「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いを正面から肯定した著者は、次なる標的としてベルグソン研究に進んでいるらしい。その展開に期待しつつ、さらにアーレントフーコーの位置づけについても教示を乞いたいと思った。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)人間の条件 (ちくま学芸文庫)
ハンナ アレント Hannah Arendt 志水 速雄

筑摩書房 1994-10
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言葉と物―人文科学の考古学言葉と物―人文科学の考古学
ミシェル・フーコー 渡辺 一民 佐々木 明

新潮社 2000
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