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藤子・F・不二雄追悼(1997年)

 今は亡き『へるめす』という岩波の雑誌に書いた藤子・F・不二雄氏の追悼文をひょんなことで発掘した。掲載されたのは1997年3月号、書いたのは、ファイルのタイムスタンプによると、その前年の12月らしい。ちょうど12年前、まだUCバークレーではなくコロンビア大学にvisitingで行こうと思っていた頃だ。いかにも若書きというか、よくわけのわからない怒りに駆られて書き殴った文章だが、本になることもありえないと思うので、せっかくだからここに載せておく。

 ジョン・レノンが狂人に殺されたとき、オノ・ヨーコが日本の新聞の一面全部を買い取って発信したステートメントのなかに、ジョンの死について書くことで日銭を稼ぐ人々を責めはしない、という趣旨の一節があった。それを読んだときの穏やかな感動に忠実であろうとすれば、つい最近亡くなったひとりのマンガ家にかこつけて撒き散らされたみすぼらしい言葉どもに対しても、静かに苦笑はしつつ、通り過ぎてやるべきなのかもしれない。だがオノ・ヨーコのように死者に対して近くはなく、また金持ちでもない筆者は、彼、藤子・F・不二雄の作品群を愚かな善意で台無しにしようとした連中への怒りを書きとめるところから、この追悼(としての批判)の文章を書き始めるほかはないのである。
 初めにはっきりさせておかなければならない。藤子・F・不二雄は一度だって、読者に夢を与えたことなどなかったし、そのことに誰よりも自覚的だった。青年向けであれ子供向けであれ、どんな作品においても彼が読者に教えようとしたこと――彼は本質的に教育者的な作家であった――それは、この世界が存在すること、ましてこのように在るということは全くの偶然であり、それゆえ可能性としては他のようにもありうるが、しかし現実にはこの世界しかないということ、ただそれだけであった(そこから、われわれはそれでも生きて行かねばならないといった教訓を引きだすかどうかは読者の勝手だ)。
 青年向けの短編のいくつかにおいて、それはプロットのレヴェルで明瞭に示されている。「分岐点」では、かつて二人の女のあいだで迷い、一方を妻とした男が、期待した通りではなかったその後の生活から逃れたいと願い、時間を遡って人生をやり直す。いうまでもなく、もう一方の女を妻として。だがそれもまた、彼が望んだような日々ではありえなかった。分岐点から延びる道はどちらも塞がれていたが、それでも彼は選ぶほかなかった。これは、最も藤子的なモチーフである。世界はあらかじめ塞がれているという感覚、可能性は可能性でしかないと諭す乾いた声が語るのは、決して止揚へはたどり着かない出来損ないの弁証法だ。「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」もまた同じように絶望的な傑作である。ある日突然、不死の強靱な肉体とさまざまな超能力を手に入れた投書マニアが、次第にその力を暴走させていく。なにしろ男は水爆の直撃を受けても死なないのだから手に負えない。だがまさに最後の友人さえも殺そうとしかけたとき、またしても突然、彼は喀血し、やがて息絶えるのだ。彼が滅びた原因、それは彼が彼であることそのものだった。なぜなら彼を倒したのは、最高水準の医学でさえどうすることもできない、ウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞だったのだから。……
 藤子・F・不二雄の師でもあった手塚治虫は、おそらく戦争体験から獲得された、何か得体の知れない絶対的なものの感触を抱き続けていた。それがあるいは死であり、それゆえ唯一の確かなものが最も忌避すべきものであるという逆説が彼を呪縛していたのだとしても、犬死にへと追いやられた者どもからの怒りを借りてそれを断ち切るというやり方で、彼は運命への抵抗を持続することができた。手塚にとって、未来とは犬死にした者、虐げられた者たちの怒りがついに勝利をおさめる場所の名にほかならない。『人間ども集まれ!』のラストで、「戦争ショー」の駒として消費されていた無力な無性人間たちが、殺戮を見物していた人間どもに反逆し、体制を転覆する場面こそが、手塚の世界観を集約している。
 藤子・F・不二雄には、死でさえもそのように確かなものではなかった。そのことを、いま世代論として展開する余裕はないが、あの戦争さえもが何も変えることができなかったという感覚が「戦後」という空間の地下を流れているとすれば、藤子こそは極めて戦後的な作家であったと言いたい誘惑に駆られる。これとは別の世界という可能性が、リアルなものでも、望ましいものでさえないという閉塞と諦念のなかで日々を生きることの残酷さを、これほど鋭敏に映し出したマンガ家はいない。そして、読者である子どもたちはそのことを確実に理解していただろう。『ドラえもん』での少年のび太に対する教育が、破産したのび太の子孫セワシによる過去改造計画として始められたことを読者は知っている。未来は、まず失敗という相において提示されるのだ。しかも、セワシが様子を見に来る限りにおいて、計画は成功していない。何も変わってはいない。だがむしろ、彼の期待通りにのび太ができのいい人間になったら、タイム・パラドックスの論理にしたがって、セワシそのものが存在しなくなってしまうのではないか? その場合、物語は始まりさえもしないことになる……。根源的な不安のなかに浮かぶ世界。『ドラえもん』が実は交通事故のため植物人間となって眠り続けるのび太の夢であるという例のフォークロアは、藤子・F・不二雄という作家がしたことの本質を、読者である子どもたち自身だけははっきりつかんでいたことを証拠立てている。彼は子どもたちににこの現実を超える夢など与えはしなかった。むしろ、現実が夢であり、夢だけが現実だという事実だけを繰り返し教える、優しく陰鬱な教師だったのである。
 そして後に来るべき世代の「最良の精神」たちは、藤子が徹底したこの閉塞を何らかのかたちで突き破ることだけにその闘争のほとんどすべてを賭けることになるだろう。大島弓子はこの生という諦念を、全面的な肯定へと転化する。すべては虚しい夢であるという藤子的命題は、すべてはリアルであるという等価な発見へと正確に置き換えられる。江川達也は「成熟」のテーマを掲げ、《欲望の惹起―成就寸前の挫折―増長とやりなおし》という『ドラえもん』の神経症的循環を超越することをたくらむ。安達哲は、奇蹟のようにみずみずしい青春群像『キラキラ』から、この見え透いた現実(リアリティ)を突き破る〈現実界(リアル)〉の噴出としてのバブルの吐き気がするような感触を物質化した『さくらの唄』へと突き進んだ。その後の彼の苦悩は、われわれと無縁なものではありえない。そしてあの素晴らしい岡崎京子は、どこまで走っても荒涼とした仮想現実でしかないこの世界のただ中で、覚醒のための素材をぶちまけ続ける。
 藤子・F・不二雄さん。あなたが愛したマンガを引き継いだ人たちは、意識しようとしまいと、こうしてあなたがつくりあげた地平から、いまも新たな表現を立ち上げようとしています。松本大洋の『ドラえもん』のように、原作への透徹した批評であると同時にオマージュでもあるという作品さえ描かれています。僕もまた、あなたほどの大作家の逝去に際して、ナメきった賛辞ばかりがメディアを賑わしていることに怒り、短いながら、ほとんど唯一であるはずのまともな批判的読解をここに書き連ねてきました。これでようやく、お別れの言葉を書きとめることができます。われわれに夢を与え続けてくれた藤子さん、どうか安らかにお眠りください。

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 「サンプルAとB」「分岐点」「気楽に殺ろうよ」「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」など収録。恐るべき密度だ。

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 上の巻より全体としては落ちるけど、究極の藤子世界を体現する超名作「ノスタル爺」が入っている。「イヤなイヤなイヤなやつ」は切れ味のいい社会学的SFの傑作。

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 はじめてこの作品を読んだ『ドラえもん』や『オバQ』のファンはみな呆然としたであろう異様な傑作「劇画・オバQ」、藤子さんだけが描き得たロマンチックな「一千年後の再会」。