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ヘヴン

ヘヴンヘヴン

講談社 2009-09-02
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 想像をはるかに超える傑作。酷い苛めを受け続けている中学生の男の子と女の子の痛々しい交流、あるいはすれ違いを、男の子の視点から語っている。だが男の子はただ〈視点〉として、また「君」や「おまえ」という二人称で呼ばれる存在として登場するだけだから、いわゆる主人公はむしろ「コジマ」と呼ばれる女の子のほうだ。他には実在感をもった登場人物は少なく、苛めグループのリーダーである二ノ宮と、二ノ宮と行動をともにしてはいるが何を考えているかわからない百瀬、語り手のお母さんぐらいで、あとは苛めグループの雑魚どもや通りすがりの脇役にすぎない。

 ストーリーは、「僕」が凄絶な苛めを受ける日々の淡々とした描写を縦糸として進行し、その現実をめぐる相異なる意味づけ――もちろんそのなかには、ニヒリスティックな「無意味」も含まれる――の応酬が絡んでいく。そこで交わされる議論めいたものの内容を整理すれば、著者が私淑しているという永井均氏の哲学/倫理学の小説化という趣は隠せない。だから、ストーリーテリングの意外な巧みさと、文章のところどころにみせる細部のひらめきに感心しながら読み進めつつも、結局は永井理論を読みやすく薄めたオハナシに収まってしまうんじゃないの、という疑念を拭えないまま、あっというまに三分の二あたりまで読み進んでしまう。だがそんなたちの悪い疑念に気を逸らされるのも、せいぜいそのあたりまでだ。

 後半三分の一の展開、といっても、ストーリーではなく文章の端々によって示される〈思想〉の展開は見事だ。ラストの数ページは、これまでに僕が読んできた最良の文章にも劣らない、素晴らしいものだ。それでもここで意味されていることを要約してしまえば、やはり永井哲学の枠に収まるのかもしれない。「この〈私〉の比類のなさ」という独在論のテーゼに置き換えられるかもしれない。でもそんな読み方は倒錯しているように思える。むしろ『ヘヴン』を読んで、永井均の議論の意味を新たに発見することができるし、もしかしたらそれ以上の経験ができるのではないか、と思わされるのだ。

 念のために言えば、少なくとも最後まで読み通すならば、この作品はけっして何かの解説や置き換えに還元されるものではない、ということがわかるはずだ。この小説はそれ自体として、すなわち文章の組織された集合としての独立した価値をもっている。そして、小説としてしか成立しえない文章表現として自立し、小説としてしか成立しえない〈思想〉の結晶になりえている。「僕」が、ちょっと初期の忌野清志郎に通じるような「無垢な少年の残酷さ」の形象化であるという美点も忘れずに付け加えておこう。この作者が本物の小説家としての才能に恵まれたことは疑いを容れない。今後、さまざまな人が新作を心待ちにするような、大きな作家になっていくにちがいない。