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高群逸枝の夢

『解放教育』という雑誌に「ジェンダー論の練習問題」というコラムを連載していた。いつのまにか4年半ほどに及んだが、思うところあって、先日終了させていただいた。
 これはあくまでも『解放教育』読者を念頭において――といってもまったくの推測でしかなかったのだが、ともあれ雑誌の内容や雰囲気を一応は意識して――書いていた文章であり、読まれる「場」が変われば意味作用も変わってしまうし、何より小さな雑誌から原稿料をもらって載せてもらっていたので、このブログや他の媒体に使い回すことは控えてきた。しかし連載もひとまず終わり、今後、本のかたちにまとめるつもりもないので、書評的な文章にかぎって、ぽつぽつとこのブログに再掲していこうと思っている。
 というわけで、第一弾は、丹野さきら『高群逸枝の夢』です。一昨年の「河上肇賞」(藤原書店)奨励賞受賞論文、さらに遡れば著者の博士論文をもとにした、新鋭の力作。以下の駄文は、『解放教育』の、えーと何号だったか忘れたけど、「ジェンダー論の練習問題」第49回から再録したもの。

高群逸枝の夢高群逸枝の夢

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49 高群逸枝と反・生殖の思想
 今回は、丹野さきら氏の近著『高群逸枝の夢』(藤原書店)を紹介したい。これは、従来の高群論に根本的な反省を強いる斬新な研究書であると同時に、現在のフェミニズムが直面している――むしろ、座礁しかけているというべきかもしれない――諸問題を異なる角度から照射する光源のような問題提起の書でもある。
 高群逸枝という思想家は、あたかも日本のフェミニズム史の喉元に突き刺さった棘のような存在である。一方における日本女性史の開拓者としての比類なき業績と、他方における大東亜戦争の狂信的な賛美者としての顔という断絶を、従来の高群論はうまく架橋することができなかった。天からの啓示を迸らせるがごとき若き天才詩人の時代から、アナーキズムへの関わりを経て聖戦賛美に至る、あまりにも大きな振幅に枠どられた高群の道ゆきをいかなる条理がつらぬいているのかは、後の研究者たちにとっては尽きせぬ謎でありつづけてきたのである。
 なぜか。その元凶は、論者たちが、高群を「歴史家」という枠に押し込めてきたことにあると丹野は言う。それはすなわち、時間を直線として表象する近代の意識を暗黙の前提として、高群の言葉を解釈してきたということである。だが初期の詩や代表作『恋愛創世』を虚心に読めば明らかなように、高群こそはそのような時間意識に敢然と抵抗した人であった。「我々は瞬間である」というテーゼを想い起こせばよい。そこからみれば、後期高群の憑かれたような「歴史熱」は、むしろ長い衰退の過程であるにすぎない。だが、それでもなお、あの聖戦賛美という無残な夢想にさえ、いまここで理想郷の即時実現を信じよと叫んだアナーキスト高群の「瞬間」への渇望が残響しているのである。
 直線的な〈歴史〉ではなく「瞬間」を至上のものとする時間意識は、「生殖によって人類は消滅する」という謎めいた、しかし高群の根本思想を表す命題を正確に理解するための鍵でもある。丹野によれば、高群のテクストそのものを虚心坦懐に読むならば、この命題の意味はむしろ明瞭すぎるほどに明瞭であるという。それはすなわち、個としての人間の絶対的な肯定であった。国家のため、さらには人類という「種族」に貢献する点に母性の価値を見出した平塚らいてうを皓歯として、それから百年後の今日における少子化論議に至るまで、フェミニストたちは一方で女性を「子産み機械」のようにみなす言説に激しく反発しながら、他方では奇妙なことに、生殖すなわち新しい人間の誕生を国家・社会・人類といった大いなる「全体」の内部に位置づけ、価値づける思想を断ち切ることはなかった。丹野はとりわけ「人類」という観念を無批判に操作するエコロジカル・フェミニズムにその病根の深さを見ている。
 確かに、国家や社会において周辺に追いやられ、あるいは排除された者たちが、自らを追いやったものの内部に居場所を求めることは政治的に正当である。それが人権というものの定義にほかならない。しかし、そのような政治的観点は、ある一個の人の「存在」を肯定するか否かという次元とは全く無関係であるはずだ。一個の人の存在を肯定するのに、社会や国家や人類のためにいかなる「価値」があるか、言い換えれば何の役に立つかという手段性をもちだしてはならない。そのとき肯定されるのは結局のところ観念的な「全体」であって、個としての人間そのものでは少しもないからだ。個としての人間には「価値」など無縁である。人は、何かの役に立とうが立つまいが、それ自体において、端的に肯定されなければならないのである。これこそが、丹野が高群に見出した思想の核心にほかならない(そのような思想に、しばしば「母性主義」というラベルが貼られてきたことは、日本のフェミニズムにとってほとんどスキャンダルと呼ぶべきだろう)。ここでは、生殖はもはや普通の意味での――全体への奉仕に閉じ込められたものとしての――生殖ではないだろう。それは連綿と続く諸世代の一ページなどではないからだ。世代継承のための生殖、生殖のための恋愛、そのような目的―手段図式を粉砕せよ、と高群は繰り返した。丹野は、その言葉をハナ・アーレントの「出生」概念に共振させる。アーレントがいうように(『人間の条件』)、ひとりの赤ん坊はまったく新しい何者かである。かれはすでに定まった世界の一部に収まるためにではなく、世界を丸ごと更新するために生まれてくる。
 この事態を表現するのに、「新たな生命」といった見かけのよい標語は危険である。いや、それこそが真に危険なのだと言うべきだろう。なぜなら「生命」という観念は、個のかけがえのなさを全体というモノトーンに塗り込める絵筆であることが見え透いているにもかかわらず、なぜか政治的立場の違いを超えて珍重され、私たちの思考を怠惰に微睡ませる「思考の習慣」(M・フーコー)として機能し続けているからだ。だからより精確に、赤ん坊は少しも「生命」などではない、と言うべきである。それはただ、新しい人としか呼びようのない存在なのだ。それゆえ数などは問題ではない。少子化云々は、あくまでも国家や社会の維持をめぐるリアル・ポリティックの問題にすぎないのであり、そのように功利的に遇すべきなのであって、そこには嘆くべき人間的問題などありはしないのだ。