坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』

ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光
坂部 恵

岩波書店 1997-05-16
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 『ヨーロッパ精神史入門』は、読み進めるにつれて高まる興奮を抑えられないほどの含蓄にあふれた本だった。ただし裏返しに言えば、ここには含蓄しかないので(短い講義メモのようなものを25回分集めた本であり、詳細な文献改題や論証などはないので)、本書に何かを見いだした読者は、坂部恵が数行で書いていることの意味を自力で正確に理解し、その解釈や問題提起の妥当性と射程をたしかめるために、膨大な時間と知力を費やさなければならないorz。先が思いやられる……。
 気を取り直して、いちばんのポイントだけ記すならば、近代の思潮における過度の唯名論的傾向に抗して、(スコラ的)実在論復権させようということである。この縦糸を象徴する叙述として繰り返し参照されるのが、C・S・パース「形而上学的ノート」の次の一節だ。

 考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観――思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the indefinite)は、完全な確定性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者――「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確定性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。[p.45]

 背景知識のない僕にとってはひたすら謎めいていながら、しかし何か胸騒ぎを喚起するこの文章が、坂部による縦横無尽の引用とそれらについての切れ味鋭い解釈をまじめに追っていくと、少しずつその広大な射程をあらわにしていくのである。
 坂部がパースをふまえて言うところによれば、14世紀の哲学のメイン・イシューであるいわゆる普遍論争(実在論唯名論の対立)は、通常そう理解されるように「個と普遍のプライオリティ如何」という問題であるよりは、むしろ「個的なもの」をどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわるものであるという。すなわち、

個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。/「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます[pp.47-48]。

ということだ。そして坂部は、パースとともに、明確に前者すなわち実在論に肩入れしているのである。
 そうした思考の線上で、アヴィケンナの「共通本性」、ドゥンス・スコトゥスの個体概念、ライプニッツによるその展開、ホイットマンやジェイムズの種概念、アルベルトゥス・マグヌスおよびニコラウス・クザーヌスの多元宇宙論・個体論、「能動知性」概念の退潮とカントによるそのアクロバティックな置き換え、といったさまざまな概念・議論が参照されてしばしば気が遠くなりかけるが、上記のように主張の太い線はきわめて明確なので、よくわからない箇所は残っても頭が混乱することはない。
 近代については、コントの「実証主義」およびベンサムの「功利主義」という19世紀の二つの主導思潮が「まぎれもなくノミナリズムの基盤の上に成立していること」、そしてそれらが「個の尊厳」を重んじ、「民主主義」(これは坂部自身が括弧をつけている)の基礎原理としての役割を果たしてきたことが正当に評価される。だがその上で、ロールズ『正義論』以降の功利主義批判が言及され、現在ますます活況を呈するそうした議論には立ち入らないものの、そうした議論の深奥にぐいと手を差し入れるような風情で、以下のような(痺れる!)一節が語られる。

 それは、「個」の概念についてです。
 あらゆる生物的社会的特性から抽象された個人たるかぎりでの個人、人たるかぎりでの人、というノミナリズム系統の「個」の概念とはまた別に、ヨーロッパの哲学の伝統には、もうひとつ別系統の「個体」の概念がありました。
 すでに何度も触れた、「小宇宙」として、全宇宙をみずからの内に潜在的にはらみ、単純な概念であるどころか、汲み尽くしえない豊かさをたたえた個体、という概念です。
 ニコラウス・クザーヌスライプニッツに代表される、この(いわば「垂直の」)個体概念は、抽象的でそのかぎりでは同質な個とはちがって、はじめから、置き換えのきかぬ独自のこの私であり、しかもみずからのうちに、他の個との交流の素地をもっています。しかも、異文化や異人を、その他者性を尊重しながら交流できる素地を、です。[pp.155-156]

 さて、坂部が言う〈ヨーロッパの哲学の伝統における、もうひとつ別系統の「個体」の概念〉を、坂口ふみは、哲学よりも宗教(キリスト教)の思想形成過程の中に、より正確にはヨーロッパにおける哲学とキリスト教との緊張関係――思想的だけではない、激しく政治的でもある――の中に探っている。坂口の浩瀚な『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』(岩波書店、1996年)の中で最もエキサイティングな、ギリシア語の「ヒュポスタシス(υπόστασις)」という概念の帰趨をめぐる叙述を見直してみよう。
 坂口によれば、「四世紀から六世紀の教義論争は、とくにカルケドン宗教会議以後のそれは、まさしくこの概念[=ヒュポスタシス]の生成をめぐっての闘争であった」という。この概念こそは、キリスト教思想がギリシア的思想世界に対してつきつけた独立宣言のようなものであり、この概念を、キリスト教の思想化の中核をなすものとして鍛え上げることこそ、この時代の思想的努力の中心だったのだ。
 それほどにも重大な概念がラテン語化せず、近代西欧諸語からまったく姿を消してしまったという謎の一つの答えは、ラテン語では、このヒュポスタシスがペルソナ(persona)と翻訳されたことである。近代ヨーロッパ語のperson, Person, personneなどとなり、日本語では「人格」と訳されるこの西欧思想の最重要語の一つは、しかし本来はヒュポスタシスとはまったく異なった意味をもっていた。かくして、、もともとギリシア語ではじまったキリスト教の思想化の努力が、西方ラテン世界に翻訳され、移行するときに、この最も中核的な概念が迷子になり、脱落して別のものとすりかわったようなのだ。しかも、「ペルソナ」の語にしても、それが当初含んでいた独自の存在論はしだいに薄められ、中世から近代にかけて、次第に単なる人間論の術語としてしか意味をもたなくなっていく。

せっかく四世紀から六世紀に至る政治と理論の白熱のうちで姿を現わしてきたこの独自の存在性が、少なくとも西ヨーロッパでは次第にまた消滅してゆくのである。これは、「個」にきわめてよく似るが単なるギリシア的「個体存在(individuum)」ではなく、おきかえのきかない純粋個者、しかも、つねに他者との交流のうちにあることを本質とする単独者である。西欧はこの概念を失ったことによって、多くのものを失いはしなかったろうか。(……)[p.114]

 このあと坂口は、現代のレヴィナスによる「イポスターズ」概念のうちに東方教会的なものを読み取り、改めてその意義を強調している。

 イポスターズは匿名でないものの出現である。支配し、自由であり、自己同一性・単一性をもつ。レヴィナスがこれを強調するのは、直接には多分ハイデッガーの根本概念である「存在」の中性性・匿名性へのアンチテーゼであるだろうが、これもある古いアンチテーゼとよく似ている。ニカイア前後以来、三位一体の一性を強調する西方神学に対して、三位格をこそ基本と考える東方神学は異議を申し立て続けてきた。ヒュポスタシス(位格)はしたがって、ギリシア語で思考するビザンツ東方神学のもっとも重く主要な存在概念でありつづけた。スラヴの正教を私はくわしく知らないが、おそらくそこに変化はないと思う。
 この「匿名でない」実存者、ある種の具体性と自由とを持つ実存者――と言うより、その含みもつ、あるいは含まれる、匿名的存在から実存者化する働きそのもの――、としてのイポスターズには、「実体」を共有し、いわばそれを基礎としつつも、そこから歩み出る位格、人格、ペルソナの姿がほのかに残ってはいないだろうか。もちろん、レヴィナスにとっては、そこで話が終るわけではなく、イポスターズはまだいわばモナド的な、孤独な人格存在であり、その孤独からの脱出の方途がさまざまな仕方で探られるのではあるけれど。
 (……)
 それに至る多くの複雑な歴史的事情も大いに関心をひくことではあるが、ここで注目したいのは、この東方的なものが、やはり西方の蔑ろにしてきたものを保存していないだろうか、ということである。(……)[pp.120-121]

 おそらくここでは概念間の関係がねじれているので注意が必要だろう。坂部が言うように、ノミナリスム的「個」の概念を受け継ぐのが近現代の「個、個人、人格=パーソン」だとすれば、それはむしろ坂口が歴史の影から掬いとろうとするペルソナ概念(ましてヒュポスタシス概念)とは、むしろ相反するものだということになるだろう。ヒュポスタシス→ペルソナ→パーソンという翻訳の過程で、その意味にも大きな変化が生じたのだ。この点には十分な注意が必要である。たとえば現代の生命倫理学において「人格=パーソン」という概念が、せいぜいロックにまでしか遡らない程度の軽い吟味だけで利用される場合、そこから「歴史の遠近法的倒錯」的に古代・中世のペルソナ、さらにはヒュポスタシスを解釈してはならない、ということだ。

 先ほどの引用個所につづけて、坂部恵は「この個体概念を今日の社会哲学等に生かす余地はまだ残っているのではないでしょうか」と書いている。これこそまさしく、僕がここ数年漠然とだが考え、周辺部分から少しずつ手探りでやろうとしてきた課題そのものだと言ってよい。こうした線上でこそ、たとえばデレク・パーフィット『理由と人格』のような議論を根幹から批判できるはずだし、またピーター・シンガーからの次のような挑発にも真正面から応えられるはずだ、と思いつつ、僕はあれこれと頭をこんがらがせてきたのだ。

功利主義の立場は最小限の立場、私益にもとづく決定を普遍化することによって到達する最初の基礎である。・・・もし功利主義を越えて進み、非功利主義的な道徳の規則や理想を受け入れるべきことを確信させようとする人がいるなら、それ以上のこの一歩を踏み出すための正当な理由を提出して貰わねばなるまい。[『実践の倫理』邦訳p.17]

「私益」といった概念が、ある暗黙の形而上学(それは「パーソン」という概念に集約される)に拠って立つ、ある特定の尺度の下での「最小限の立場」として正当化されるとしても、その基盤である「パーソン」そのものが置き換えられるとしたら、それは必ずしも盤石の普遍性を主張することはできないだろう。そして僕には、シンガーの一見明快な議論の全編にわたるモヤモヤした霧のような非・明晰さの感じは、ひとえにその点に由来するように思えてならない。この点については、あまりにも未消化だった『〈個〉からはじめる生命論』での議論をきちんと敷衍する作業の中で明らかにしていきたい。

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 ところで下の写真は、坂口ふみが言及しているカルケドン公会議が行われた町カルケドン転じてカドキョイの町並み。カルケドンは、いまはイスタンブールの旧市街から船で15分ほどの対岸(アジア側)にあるカドキョイという町になっている。僕はこの夏、イスタンブールで開催された生命倫理系のとある学会に出かけた折に、短い時間だがそこに立ち寄ってきた。町並みにとりたてて変わったところはなく、こざっぱりした商店街があり、中心街を少し離れるとクラブやCD店が並んでいた。いまもキリスト教の教会がけっこうあると『地球の歩き方』に書いてあったが、僕が見かけたのは一つだけだった。