『グーグーだって猫である』6

グーグーだって猫である6グーグーだって猫である6
大島 弓子

角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-09-23
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 帯に「感動の最終巻」と書いてあったので、何となく怖くて積ん読にしてあった『グーグー』第6巻。第5巻では2004年頃のことが描かれていたが、この巻では2006年頃から今年までのエピソードが一気に流れてゆく。そして2011年4月21日のグーグーの死とともに、物語も終わる。ほとんど唐突なほどに、あっさりと、まるで友部正人の「観ていた映画も途中でやめて/楽しい食事も早めに切り上げて/そろそろ、さよならをしなくては」という歌みたいに。

 物語の中で(この作品はやはり日記や記録であるよりは物語と呼ぶべきだろう)何匹かの猫が死に、そのたびに作者は「また生まれておいで」と心の中で呼びかける。そして実際に、死んだのとそっくりな野良猫が新たに大島家を訪れたりする。大島弓子が愛したある一匹の猫は、再び生まれてくることができるだろうか。現在の僕はロマン主義的な転生思想やオカルト的な前世観念にはまったく興味がない。しかし、個体性や同一性の形而上学について真剣に考えるようになってからは、「生まれ変わり」という観念そのものについて、以前のようにナンセンスなものだとは思わなくなった(果たして「生まれ変わり」と書いてよいものかどうか。それは、「また生まれる」こととは違うかもしれない)。非在者と存在者とを「同じ」とか「別人だ」と判断するための基準は何か? あるいは、非在者と未在者とでは? 複数の存在者(既在者)同士なら、通常の数的同一性概念に訴えれば済むかもしれないが(もっとも「数的同一性」が明快な概念だとはとても思えないが)、同時に存在しない対象同士の同一性についてどのように語ればよいのだろうか。ある対象が、いったん消滅して、後に再生する、という概念は無効だろうか。もしも、再び生まれるという概念に意味があり、そして私が再び生まれた者であるとしても、そのことを私だけは知り得ないだろう。そのような概念に意味はない、と直ちに言いたくなる。だが本当だろうか。