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『ジョン・サールとの対話』

Conversations With John SearleConversations With John Searle
Gustavo Faigenbaum

Libros En Red 2001-07
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 一部を(勝手に?)和訳してWebに乗せた人がいたらしく(もう現物は削除されている)、フーコーデリダについてサールが語った内容が日本語で読めるのだが、これがもう抱腹絶倒(←やや大げさ)、かつ(とりわけ社会学をやっている若い人たちの一部には)タメになるので、一部孫引きしてしまおう。要するに「デリダ・サール論争」などというものは存在しないのだ。

 他方で,ミシェル・フーコーならよく知ってる.バークレーで同僚だったからね.
 あるとき,妻とぼくとで彼とランチで同席したことがあってね.彼に言ったんだ,
 "Michel, pourquoi tu écris si mal?"――「ミシェル,なんでこんな悪文を書くの?会話じゃあきみだってぼくみたいにはっきりものを言ってるじゃないか.なんでこ んなに不明瞭な書き方をするの?」って.そしたら彼が,「ぼくがきみみたいにはっきり書くとね,フランスの書評家連中に子どもっぽいって思われるんだよ.infantil って言われてしまうよ.」 彼が言うには,「フランスじゃあね,少なくとも10%は意味不明じゃなきゃいけないんだ」――"Au moins dix pour cent incompréhensible" だって.「そうしないと,かんたんすぎるって思われてしまうんだ,子どもっぽすぎ るって.真面目に読んでもらえなくなるよ.深みがないって連中は考えるんだ.」
ぼくはもう面食らってしまってね.「ひょっとしてミシェルはぼくのことをからかってるか,冗談でもとばしてるのかな」と思ったりしたよ.それで,コレージュ・ド・フランスで講義をしてたとき,ピエール・ブルデューにこの一件を話してみたんだ.ピエールが招待主でね.それで,彼に,ミシェルは真面目に言ったのかなって聞いたら,ピエールがえらく興奮して,「まったくもってそのとおりだよ.それどころか,10%以上だね.10%をずっと上回るよ.意味不明なことをいれなきゃ,フランスじゃあまともにとりあってもらえないんだ.」ということは,これはフランスとアングロサクソン諸国のちがいなんだね.ぼくなんかは,なんでもすごくはっきりさせようと一生懸命やってるものね.

G.F.
デリダとの論争は有名ですね.
|サール:
 デリダを読むと,とんでもない誤謬が何度もでてくるよ.わけがわかんないくらいでね.しいて言うと,彼はこんなことを言ってる.
 デリダは,西洋の知的な活動,西洋哲学に伝統的な対立があれこれみつかると言 ってる.たとえば,字義的なものと隠喩的なもの,事実と虚構,男と女とか,そう いう対立.もちろん,いろんな二元論的な対立があるという点では彼は正しい.さらにデリダが言うには――ぼくは疑わしいと思うんだけど――つねに一方が他方よりも「優越」してるそうなんだ.「優越」というのはデリダの言葉遣いなんだけど.つねに一方が他方よりもイイってことだね.字義的なものは隠喩的なものよりよくて,男性は女性よりいいとか.
 それで,いつでもこんな風に一方が他方よりも優越してるらしい.まあ,なかにはたしかに正しいのもあるよ.つまり,偽よりも真の方がいいのは明らかでしょ.
でも,デリダはこれにつづけて珍妙なことを言い出すんだ.こんな具合.A とB,2つの項があって,AがBに優越してるとき,デリダはそれをひっくり返してホントはBの方が根本的な項だと示したがる.どんな風に変形して転倒していくかっていうと,こんな感じ.彼いわく,「Aを前提に与えられてるとき,Bはいつでも可能だ」たとえば,字義的な発話が前提に与えられてるとき隠喩はつねに可能だ,非・虚構が前提に与えられてるとき,虚構はつねに可能だ,とか.それにつづけてデリダが言うには,「しかし,この可能性は必然的な可能性だ.」 あるものが虚構じゃないって前提が与えられてるとき,それが虚構だというのは必然的な可能性だっていうんだ.他にも,お金が存在してるとき,偽金の可能性は必然的な可能性である, とかね.この先になると,デリダの言ってることはもう愚にもつかないくらいだよ.「可能性が必然的な可能性だから,とにかくB はすでにA に銘記されている」って言うんだ.どういうわけだか男はすでに女であり,非虚構はすでに虚構で,真はすでに偽である,なんて具合に他にもあれこれ言うわけ.劣るとされた項がすでに もう一方の項に銘記されてるというんだけど,どういう意味でなのかデリダの説明はない.
 これの問題点は,様相論理としてたんに馬鹿げてるってところだね.様相論理の 体系によっては,「P が可能である」から「P は必然的に可能である」が含意される よね.Mp→LMp だ.ルイスのS5 ではそうなってるし,たしかS4 でもそうなってたんじゃないかな.でも,こんな風に様相演算子をいじくり回そうっていうんな ら,様相論理をまじめに取り扱わなきゃだめだ.ところがデリダはそうしない.その挙げ句がこの出任せのたわごとだよ.デタラメなんだ.で,みかけはうまくいくんだ,文学の人たち相手だと.でも哲学者はこんなのにはさっぱり感心しやしないね.デリダにはこの論証が何度も何度もでてくる.これを最初にぼくに教えてくれたのは,ケヴィン・マリガンだ.デリダのねらいは,劣るとされてる項がホントは優越した項だと示すことにある.どうやるかって言うと,劣る方の項の可能性がどういうわけだかとにかく優越する方の項に含まれてると示すんだ.それから,その可能性は必然的な可能性だと示す.その次に,どういうわけだか,とにかくその可能性の必然性によって,劣ってる項がすでに優越してる項に含まれてるのが証明されると示す(このあたりでひどく曖昧模糊としてくるんだけどね).
 デリダは他にもたわごとを言ってる.彼の言う「反復可能性」についての論証が それで,こんな具合に進む.どんなしるし(文とか)もいろんな場面でいろんな目的に使える.たとえばメモに「カサを忘れた」と書いてあるのを見つけたとして, ぼくはこの文をありとあらゆる用途に使える.この文を使って発音練習したっていいし,うちの飼い犬を呼ぶのに使ってもいい.それで,デリダが言うには,メモを書いたやつのもともとの志向性がこの文の発話の意味の決め手になる力を失っているのがこれで証明されるから,たとえば文の意味と話者意味の区別も根拠をなくしたり打ち壊されたりするんだって.
 この論証はひどすぎて,もうどこから批判していいやらわかんないね.あきらかにデリダはタイプとトークンの区別を把握してないよ.おなじタイプ〔の表現〕のいろんなトークンをいろんな目的に使えるからって,そんな途方もない含意はでてきやしない.デリダは混乱してるんだ.

G.F.
 デリダの『有限責任会社』にはどんないきさつがあったんでしょうか?
|サール:
 彼がオースティンについて文章を書いてね.で,どっかの人がぼくのところに来て,その文章をみせてどう思いますかって訊いてきたんだ.で,そいつを読んで思うところを言ってみたら,「我々はこれから新しいジャーナルを立ち上げるんです.英米哲学と大陸哲学のコミュニケーションを推進するのが目的です.少しお考えを書いていただけないでしょうか? いまのお話を書いていただいて出版させていただけないでしょうか?」って言ってきた.べつに異存はなかったんだけど,自分がハメられてるのに気付いてなかった.罠だったんだよ.
 そのジャーナルの目的はあの手の脱構築のたわごとを称揚することで,連中はぼくをデリダの標的にしたかったんだ.彼らはそんなこと言わなかったけどね.それで,ぼくは9ページの文章を書いた.週末に書いたんだ.デリダの方は6ヶ月かけてこんな長大な反論を書いてきた.最初の20ページはぼくの名前の綴りをわざと間違って書いたりなんかして費やしてね.まともに取り合えやしないよ.こんなのは 本当の哲学の仕事じゃない.それが出版されてるんでびっくりだね.あのジャーナルはその後消えちゃった.
 デリダの最初の文章はこのGlyphってジャーナルの第1号にぼくの反論といっしょに載った.で,6ヶ月くらいあとに,ぼくには一言もなしに,デリダのこんな 長大なやつが出版されたんだ.タイプ原稿で100 枚以上ある.おそらくはぼくへの反論なんだろうけど,あほくさいと思ったね.反論に値するとは思わなかったから, 反論はしなかった.その後,びっくりしたんだけど,デリダはこれをもとに本をつくろうとしたんだ.本にするほどのしろものとは思わないね.本にするほどの知的内容はないよ.でも,パリで出版された.たしかアメリカでも翻訳がでたんじゃないかな.

G.F.
 デリダはあなたの文章を本に入れるのを望んだのですか?
|サール:
 許可しないよ.ああいう連中を調子づかせたくないんだ.デリダを攻撃する文章はもう1本書いた.ぼくが脱構築について思っているとおりを書いてある.題名は 「さかさまになった言葉」(The Word Upside Down)で,『ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ ブックス』に載った.
 でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタインフレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.

《このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.》

 個人的に特に琴線に触れたのは、〈あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタインフレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.〉というところ。率直。
 ジョン・サールは実際ケレン味のない人で、『マインド――心の哲学』という概論書(これは非専門家にとって非常に良い本)の中で、D・デイヴィドソンの「非法則的一元論」について「自分にはよくわからない」とはっきり書いているぐらいだ。見栄をはらずにこういうことを書くのはなかなかできるものではなく、逆に平気でこんなことを書ける人は他の部分でも弛緩していることが多いのだが、サールはもちろんそんなことはない。
 僕は1997年に在外研究でUCバークレーにいたときにサール先生の講義に二、三度出たことがあるが、話の流暢さはほとんど瀬戸内寂聴なみ、学生の質問にも立て板に水で答えていたのがたいへん印象的であった。<この大先生は、すでに自分の中に答えが全部できあがっているんだなあ>と思ったものだ。同時に、大教室での講義からでも、人柄の率直さと知的誠実さはひしひし伝わってきた。アメリカの学生運動のドキュメンタリー番組を観ると、よくバークレーの造反教授として若き日のサールがとりあげられ、大勢の学生たちを前に演説している姿が映し出されるが、強面な感じやクラい感じはまったくなく、何だかサラっとした人という印象がある。それは齢をとってもあまりかわっていなかった。それももう15年も前のことになってしまったが。

マインド―心の哲学マインド―心の哲学
ジョン・R. サール John R. Searle

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