飯田隆『言語哲学大全? 意味と様相(下)』

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)言語哲学大全 3 意味と様相 (下)
飯田 隆

勁草書房 1995-12
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 久しぶりに読み返して、説明の巧さに嘆息。他人の書いたものを読んで、また別の他人に説明するという能力が自分に欠如していること(いや、努力不足か)についてしばし反省した。
 ところで第6章「可能世界意味論の応用と哲学的基礎」のなかに次のような箇所がある。まず、可能世界意味論をめぐるスタルネイカーの「現実主義」――「可能世界=世界のそうありえた仕方」を理論的原始概念とみなし、それ以上の還元的分析を不要と考える立場――を表す一節が引用される。

可能世界は、理論的原始概念である。そう考える理由は、その存在論的身分にではなく、この概念なしでは雑多としかみえないさまざまな活動のあいだの共通性が明らかとなるような、ある抽象的水準のもとでの理論的活動にとっての有用性にある。この概念の応用のひとつに、形而上学的理論構成のための枠組みを提供するということがあるにせよ、私が擁護する可能世界の概念は、形而上学的なものではない。可能世界の概念は、形式的もしくは機能的概念である。それは、外延的量化理論の意味論において前提される「個体」の概念と似ている。個体とは、ある特定の種類のものではない。それは、どのような種類のものであっても担うことができるある特定の役割、すなわち、述語に対する主語の役割にほかならない。量化理論の意味論を用いて自らの形而上学的コミットメントが何であるかを明らかにすることはできるにせよ、この意味論を受け入れることは、個体についての特定の形而上学を受け入れることではない。[Stalnaker, Inquiry, p. 57]

これをめぐって飯田は次のように言う。

つまり、スタルネイカーによれば、可能世界意味論の枠組みは、そのことなる応用に応じて、そこでどのような対象が可能世界とみなされるかについて何事かを言う必要があるが、全ての応用を通じて同一の対象が可能世界の役割を果たす必要はない。(……)可能世界についてのこうした見方はたしかに魅力的である。(……)だが、可能世界の概念が常に文脈依存的であると考えることは無理だと思われる。文脈依存的な可能世界の概念ではなく、ある意味で「絶対的な」可能世界の概念が必要となる場面は、われわれが日常用いる様相的語法をその一部として含む自然言語の意味論を与える場面である。自然言語の全体ではないとしても、ある程度包括的なその部分に対して意味論を与えることは、その言語の話し手がどのような存在者が存在するとみなしているかを明らかにすることでもある。可能世界意味論の枠組みによって様相的語法の意味が与えられるとするならば、ひとは様相的語法を用いることによって可能世界の存在にコミットしていることになる。この場合の可能世界の概念は、スタルネイカーからの左記の引用中の言葉を用いれば、「形而上学的」なものとならざるを得ない。そして、この形而上学的な意味での可能世界が何であるかという問いには、答えが与えられるべきではないだろうか。[飯田 pp.210-211]

 さらにここには注がついていて、こう書かれている。

 ただし、自然言語の意味論を与えることが、その言語の話し手の存在論を取り出すことになるという主張は、きわめて大きな主張であって、さまざまな異論が提出されることは目に見えている。ここでそれを議論することはできない。[飯田 p.249]

 改めて読み直してみると、自分の関心が飯田さんの示唆にきわめて強い影響を受けていることを再認させられる。しかし全く同意するわけではないのは、「その言語の話し手がどのような存在者が存在するとみなしているか」という、いわば「人びとの形而上学」を明らかにするために行わねばならない作業とは、果たして「自然言語の全体ではないとしても、ある程度包括的なその部分に対して意味論を与える」ことでなければならないのだろうか、という疑問をもっているからである。そのようないかにも言語哲学固有の課題設定とは別種の、社会学的なやり方もあるのではないだろうか。それ自体としては断片的な、経験的な素材に即した分析を積み重ねることを通じて、人びとの形而上学への照明の数を増やしていく、ような。(自然言語に意味論を与える、というのは、ふつうに考えて社会学の課題ではないだろう。もっとも、「意味論を与える」というのがどういうスケールの、どの程度の包括性や体系性を要求されるべきことなのか、にもよるけれど。)