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中井久夫、ウォーコップ

 中井久夫の文庫本(『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫)をぱらぱらめくっていたら、「生の哲学」系の謎の哲学者・ウォーコップの話が出ていた。

 ウォーコップWauchopeというイギリスの哲学者は、アフリカで教師をしたり、港湾作業員をしたりした、かなりかわった経歴の人で、もうこの世におられないらしいが、タイムズの組織網をもってしてもその最後ははっきりしないと聞く。日本では英文学者深瀬基寛氏によって紹介され、精神医学界では東大分院の安永浩氏の理論の一つの土台となっている人として知られている。この人は、人間の行動を「生命行動living behaviour」と「死回避行動death-avoiding behaviour」に分けている。これはサリヴァンの満足追求行動と安全保障感追求行動にほぼ対応すると私は思う。恐怖はつきつめれば、死への恐怖である、肉体の死にしても社会的(対人的)な死にしても。[中井 64]

 このあと中井(これは1979年初出のエッセイ)は、教育において前者の比重が少なくなり、後者が優勢になりつつあるとし、そのことが高度経済成長以降の日本社会にとってもつ意味をさまざな面から考察していくのだが、それはひとまず措いておく。僕がこのメモを書いておこうと思い立ったのは、ウォーコップの名前が出ていたから。学部生のときか、もう院に入っていたかは忘れたが、僕が学生の頃に大いに薫陶を授かったT師に教えてもらい、講談社学術文庫に入っていた『ものの考え方』を読んだのだったと思う。そして、それこそ自分のものの見方において、多大な影響を受けたのだった。
 ではどういう本かというと、到底うまくまとめられそうにないので、いちばんよく記憶している象徴的な箇所を引用してみよう。

一匹の猫は、根源的には、一匹の、鼠を―捕える、ものではない――一匹の、飢えた、必要(ニード)にせまられた、死―回避的なる、ものではない。根源的にもしくは本質的に、それは一つの生きものであり、それが鼠に関心を持つのは、鼠が糸切れやその他、床の上をときどき動く小さな事物に似ているという限りにおいてである。一匹の猫が鼠を捕えるのは、猫の生きた挙動が簡単に鼠の補足に適応しうるものであり、従って鼠を捕えようとする一つの必要(飢え)が生じたときに、そのように適応したというまでである。それが鼠を弄ぶことは生きた挙動である、一切れの糸を弄ぶことが生きた挙動であるのと同じである。しかし猫が鼠を食うことは、一つの必要に応ずる防衛的挙動である。[pp.61-62]

 猫は「本来」鼠を捕るようにできているのに、「間違えて」糸巻きとじゃれるのではない。むしろ逆なのだ。生きものとしての猫は、糸巻きとじゃれることができるという権能をもっている限りにおいて、鼠を捕るという狭小な目的論をも実現できるのである。たしかに、こうした見方を採用するか否かが、どのような教育を望ましいと考えるかにとってもつ意味は小さくはないだろう。
 ところで、これは文字通りには生物個体の生理学や本能と学習との関係についての記述だが、むしろ僕はこうした見方をウォーコップから教わっていたおかげで、後にダーウィニズムをすんなりと理解することができたように思う(もう一つ、G・ベイトソンによる、ラマルク主義がなぜだめなのかという解説にも膝を叩いたが。ところで、実在を「パターン」としてとらえるウォーコップの認識論は、案外ベイトソンに似ているのではないか)。生きものは遺伝子をできる範囲でばらまき、自然淘汰遺伝的浮動という(それぞれレベルの異なる)偶然に後を委ねる。そしてたまたま「適応」した個体だけが、「生き残る=死を回避する(=種を形成/維持する)」。しかし、適応が生きものにとって「根源的」だとは――たとえばそれを「原動力」ぐらいの意味に解するならば――とても言えないだろう。生きものによる生殖の営みは、何だか知らんが始まり、「とにかく食い、増えようとする=生きる」運動にしたがってきたとしか言いようがない。それにもかかわらず、「生きること=死なないこと」という転倒した等式に、われわれは囚われてしまうのだ。……『ものの考え方』を読んだ当時、だいたいそんなことを考えた気がする。そして、それは概略的には正しいと今も思う(というか、もうそういう風にしか考えられなくなっている、というのが正確かもしれない)。
 『ものの考え方』はすでに絶版のようだ。まあ、この本自体を今敢えて読む必要があるかどうかもわからないが。

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中井 久夫

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