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ふと思い出したこと

 学生諸君向けに、言わずもがなの思い出話。最近、(僕よりはずっと)若い人たちのツイッター上のやりとりをたまたま読んで、改めて思い起こしたこと。

 大学院生の頃、今は亡き吉田民人さんのゼミで、カントの物自体というアイデアに肯定的に言及した報告者に対して、ある優秀な院生が「それじゃだめだよ、物自体については無数の論難が行なわれてきたわけで」(大意)と批判した。それを横で聞いていた別の参加者――いまでは大家の貫禄が漂う僕と同世代の(学年は一つ上の先輩だが)社会学者――がやんわりとそれを諭して、「それじゃだめだよ。いまここで君自身が『論難』しないと」と言ったのだ。

 そういえば、学部の頃にも、やたらと「何々は読みました、誰々は読みました」と口癖のように言っている下級生がいた。でも彼から、その読んだ本の中身についての興味深い話を聞いた覚えはない。

 当然すぎることだけど、勉強はしなくちゃならないし、田島正樹先生が言うように、勉強こそが我らを自由にするということが、最近僕にもようやくわかってきた。(もうトンネルの半分を過ぎて出口に向かっているのに、遅すぎ!)

 でも、ある有意味な問題への良い解答を求めて議論という協同的な実践を行なっているただ中で、「誰々の何を読めばわかる」とか「それは誰々の何々ってことでしょ」みたいなこと《だけ》を言っていても始まらない。たとえばピエール・ブルデューを持ち出すなら、「ブルデューが何を言っていて、それを自分はどう解釈していて、それが目下の問題(の解決のため)にどう関係するのか」を自分自身が論じて見せなければ、議論をする意味がない。っていうか、そもそも議論をしたことにならないだろう。

 もちろん、知識を披露すること自体は問題ない。必要なことだ。でも、もっと肝心なのは、「君自身が『論難』してみせる」ことだ。自分の頭で考えろ。「読みました」で済まさずに、読んで何を考えたか、を言いたまえ。