『ダークナイト・ライジング』(The Dark Night Rises)

 本日午後は新宿で『ダークナイト・ライジング』。予想&期待通り、圧倒的な質量と密度なのは間違いない。戦闘シーンやハイテク武器が好きでさえあれば、退屈する瞬間はひとつもない。しかし映画としての愉しさという観点からみると、僕には『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイトライジング』の順に下降しているように思えてしまった。まだ一回観ただけで、複雑な構成を十分に理解していない段階での印象ではあるのだが、『ダークナイト』において危ういバランスを保ち見事な緊張感を作り出していた諸要素が、今回はやや均衡を失ってしまっていたような感じがした。シリーズが進むごとに、ノーラン監督はあまりにも多くの「問題」を一作の中に詰め込もうとし過ぎているのではないか。いや、その志自体は悪くない。でも、この現実世界において善を追求することの困難(と、もしかしたら、本質的な邪悪さ)という中心テーマはすでに『ダークナイト』まででまとまった形で提示されていたのであり、今回はすでに見えている問題の輪郭線を太く描き直しただけ、しかも所々描線が乱れ、はみ出してしまっているという感じもなくはなかった。

 上映が終わって外へ出てくるとき、僕のすぐ後ろを歩いていた男が、傍らの女に向かって「あれもろにプロ市民だよな」(ほぼ原文通り)という台詞を3回ぐらい大きな声で言っていて、女は曖昧に応じていたのだが、彼がそう主張するのは、本作中でゴッサム・シティ壊滅をもくろむ「悪役」ベインに焚きつけられた市民たちが民衆法廷を開き、証拠調べも弁護の機会もなしに、警察官などに「死刑または追放(ただし冬の凍った川の薄い氷の上を歩かせるという実質的な処刑)」という有罪判決を次々に下す場面をとりあげてのことらしい。自分たちはあらかじめ絶対的に正しく、敵と見なした相手には「死刑または追放」という二択しか与えないという夜郎自大ぶりを揶揄したかったのだろう。そうだね、言っていることはわからなくもない。でも、そう言う君自身は、この映画の中のどこにいるんだい? もちろん、画面に映っていなくてもいい。ここに映し出された世界観そのものによって排除されたり抑圧されたりしているものもあるだろうから。でも、それも含めたとしても、キミはどこにもいないんじゃないのか。むろん、透明だの超然だのといった修辞とは無関係に、ただ単にいないんじゃないかな。……そんなふうに、ちょっと言ってみたくなったけど、実際にはやらなかった。もしかしたら、そうやって見知らぬ相手にでも議論をふっかけることを、どうせ時間の無駄だと最初から思ってしまうことも、自分が世界から超然としている体を装うことでしかなく、そうだとしたら僕もその若い男とたいした違いはないのかもしれない、と後からふと思った。

 しかし、「プロ市民」云々と言わせてしまう弱さが、本作にあることも確かだ。『ダークナイト』では、真に民衆のために命をかけているバットマンブルース・ウェインを追放する市民たちとはわれわれすべて、すなわちこの映画の観客全員であり、誰もがそれを自分自身の問題としてとらえざるをえない作りになっていたように思う。ところが本作では、観客は、暴走する民衆法廷に自分を同一化せずに成り行きを眺められるような隙があるのだ。(どうしてそうなってしまうのかは、もっと丹念に分析しないと言えないのだが。)
 ラストシーンも問題を残す。世界に外がないとき、したがって中立や無垢や、賛成と反対の中間がないとき、自分はどうふるまうのか。優れた戦争映画がつねに突きつけてくる普遍的な問いだが、本作のあの○○がXXして△△するラスト・シーンは、『ダークナイト』が明確に提示した「解決不能」という解答からの後退であるようにも見えた。邪悪な真理としてのエンターテイメント映画という困難な企てを、圧倒的なテンションで実現してしまう、当代随一の才能をもつクリストファー・ノーラン監督に対してなら、「ヒーロー=キリストを殺したものは私の罪だ」(©真島昌利)という真理を観客に直視させ続けるような、もっと逃げ場のない過酷な映画を期待してもよい、と思うのだが。