数年前に『現代思想』別冊の上野千鶴子特集号に書いたエッセイの草稿をサルベージしておく。雑誌に載ったバージョンと大筋は変わらないが、原稿用紙6、7枚分長い。

「わたし」への持続する意志について
加藤秀一
 1
 一九八三年に大学に入った人間が、フェミニズムと名づけられた思想運動について、したがってそれが対峙した性差別の現状について学ぼうと欲したとき、上野千鶴子から始めることはほとんど自然の摂理だった。僕自身について言えば、フェミニズムに深く魅了されるにいたる細々とした個人的前史もなくはなかったけれども、それが知的な関心として一気に上昇気流に乗せられたような感じがしたのは、紛れもなく上野千鶴子という一陣の風がもたらした開放感の中でのことだった。当時、仲間と一緒にJ・S・ミルやA・ベーベルの古典的な婦人解放論をお勉強し、あるいはイヴァン・イリイチの「ヴァナキュラー・ジェンダー」論を通して「ジェンダー」という英単語と出会った(!)ばかりだった僕に、こんなふうに現代的にフェミニズムすることができるのだという鮮やかなビジョンを与えてくれたのが、一九八二年の『セクシー・ギャルの大研究』以降の上野による矢継ぎ早の発言だったのだ。とりわけエコロジカル・フェミニズムを掲げる故・青木やよひ(僕は彼女からも多くを学んだ)との論争や、何よりイリイチ批判の論文には圧倒的な印象を受け、説得された。それを一書のタイトルとした『女は世界を救えるか』(一九八六年)こそ、僕が最も興奮しながら読んだ上野千鶴子の著作かもしれない。イリイチ性役割秩序と「反成長」のイデオロギーとを巧みに結びつけることで描いてみせた性差別なき共同体像のまやかしをものすごいテンションでぶち壊してゆくこの論文から、僕は本物の怒りがシャープな知性と文句なしに両立することを学んだ。いやむしろ、真に透徹した認識は本物の怒りによって支えられずにはいないということをさえ、教えられたように思う。
 けれども、考えてみると不思議な感じもするのだが、そのときもそれ以後も、僕は上野千鶴子から主張内容そのものや理論枠組みを受け継いだという気はまったくしないのだ。現在にいたるまで、上野の言うところのマルクス主義フェミニズムをよく理解できたと思ったことはないし、近年の「構築主義」についても納得できないことだらけだ。それにもかかわらず、自分が上野千鶴子から受けた影響は疑いなく深甚なものだと感じる。理論的立場を受け継いだわけでもなく、教室での師弟関係をもったこともほとんどないにもかかわらず、上野千鶴子は紛れもなく僕の師であったし、いまもそうだ。なぜだろう。この点に関連して、ある哲学者がこんなことを言っていたのを思い出した。「われわれの師とは、われわれが成人にたっしたときに、ラディカルな新しさでわれわれを驚かせる人であり、(……)われわれの現代性に合った、言いかえればわれわれが直面する難問や多方面に広がる情熱に合った思考方法を発見できる人である」(ジル・ドゥルーズ「彼は私の師だった」『無人島 1953-1968』河出書房新社、一六一頁)。たしかに僕(たぶん、僕たち)は、あらゆる場所に先回りしている上野千鶴子によってしばしば驚かされ、彼女から学び、また反発することを通じて、自分自身の「直面する難問や多方面に広がる情熱」の在りかを少しずつ確かなものにしてきたのだろう。

 2
 とはいえ、誤解のないように言えば、上野の「ラディカルな新しさ」とは、必ずしも耳目を驚かすごとき主張をするところにあるのではない。むしろ上野が、しばしば思いつきの新説を唱えた結果、みっともない失敗も犯してきたことは周知の事実だろう(同性愛を単純なナルシシズムと同一視したり、自閉症の医学をよく調べずに生育環境のせいにしたり。ただしいずれの場合にも後から自分の非を認め、修正や謝罪をしていることには敬意を抱く)。それに対して、落ち着いて考えてみればもっともであるはずなのに、なぜかその裏を張る言論の方がより鋭い発想であるかのように持て囃されている、といった種類の主張を正拳の構えから繰り出すときの上野千鶴子は、この上なく爽やかに、周囲の澱んだ空気――フインキ?――を弾き飛ばす。上野が、女性原理が近代文明の行き詰まりを打開する云々と騒ぎ立てる連中を「男が救えなかった世界を、女だけが救えるはずがない」と突き放し、むやみに性差を強調する極大論者(マキシマイザー)に対しては、性差の否定というありがちな罠に陥ることなく、「性差より人種差より世代差より何より、個人差がいちばん大きい」とする性差極小論者(ミニマイザー)の立場を投げ返すとき、僕にはそれらは全き肯定的な意味における〈正論〉であると思えた。上野自身、時に「正気」という微妙な言葉を使って、ほぼ同様のことを言っていたと思う。穿った見方を弄ぶより、埃にまみれ干涸らびかけた〈正論〉に新たな生命力を与え、対話の空間に再び解き放つ類い稀な才能においてこそ、上野千鶴子という論客は記憶されるべきではないか。
 そして僕には、一九九〇年代の終わり頃、上野が従軍慰安婦および連合赤軍という重い主題をめぐって一見あまりにも無防備に口にした「わたし」という言葉もまた、そのような〈正論〉のひとつであった――そうであるに過ぎなかった――ように思える。それが、恐ろしいほどの反発を呼び、自民族中心主義者という非難をさえ喚び起こしたこと、その意味について、いくらかのことを考えてみたい。

 3
慰安婦」とは、「一九三〇年代から四五年までアジアで戦った日本軍の将兵の性的欲望を満たすために設けられた『慰安所』で日々性交を強いられた女性」たちを指す。「慰安所」は広範な地域につくられた制度的なものであり、その犠牲者は、日本、中国、朝鮮、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ等の国々にわたって、数万人から二〇万人に及ぶと言われている(大沼保昭「はじめに」、大沼・岸編『慰安婦問題という問い――東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、二〇〇七年)。その事実が日本で広く認知され、社会問題として浮上したのは、一九九一年に韓国人元「慰安婦」の金学順さんが名乗り出て以後のことである。その後数年のあいだ、日本のマスメディアは「慰安婦」問題をさまざまに報道し(そしてほどなく忘れ去り)、日本政府は対応に右往左往した。
福岡愛子の聞き取りによれば、上野千鶴子は二〇〇一年のドイツ滞在中に元「慰安婦」の証言について知り、強烈な衝撃を受けたという。ただし興味深いことに、上野が接したドイツでの第一報は、金学順さんの名乗りそのものではなく、その後の日本政府を相手取った賠償請求についての記事だった。政府レベルではすでに解決済みとされていた問題をめぐって、ある国の個人が他国政府を直接告発するという行動の画期的な意義に注目した上野は、そこから「『慰安婦』たちの闘いを国家による代弁を拒否する『わたし』の闘いとして意味づけ」てゆく(「『慰安婦』問題の意味づけをとおしてみる上野千鶴子の「記憶」問題」、千田有紀編『上野千鶴子に挑む』勁草書房、二〇一一年、二七一頁)。そして一九九五年に北京で開かれた第四回世界女性会議で、在日韓国人女性の金富子らと「慰安婦」問題をめぐるワークショップを組織した上野は、「慰安婦」問題が日韓両国の間で国益の取引の道具として利用されているのではないかという危惧から、日韓両国のフェミニズムは国境を越えるべきだと発言し、会場の韓国系アメリカ人女性から「欧米フェミニズムの自民族中心主義と同じではないか」と批判されることになる。その痛烈な批判を「日本人フェミニストフェミニズムの越境を侵略された女たちに求めるのは日本および日本人の加害性を無化してしまうのではないか」という問いとして受け止めた上野は、それを「フェミニズムは国家を超えられるか」というより普遍的な問いに変換した上で、肯定的な答えを模索してゆく。そして、その後も各方面から続々と突きつけられた同様の批判に向き合いながらも譲らず、みずからの立場を次のように定式化するにいたる。

「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である(『ナショナリズムジェンダー青土社、一九九八年、一九七頁)。

これがピンとこないなら、上野がどこかで書いていたもっと生々しいエピソードをそれに貼り合わせてみるとよいだろう。ある高校で、日本の朝鮮侵略について語っていた男性教師がヒートアップし、日本人生徒たちに対して、クラスの在日朝鮮人生徒の名を挙げて「全員、○○さんに謝れ」と絶叫した、というエピソードである。これに対して、そんなふうに国家を背負うことの気色悪さを批判する上野の「正気」を、僕は心から支持する。
 他者との関係から与えられる諸カテゴリーのどれからも逃れることはできないが、しかしそのどれにも還元されえない「わたし」――それはかつてボーヴォワールを読み、サルトルの「他者が完全にエイリアンであるような極限的な個人の思想」を経て、メルロ=ポンティの「共感性・相互性の思想」にたどりついたという(隠れ?)実存主義者・上野千鶴子の面目躍如たる〈正論〉であろう(「森崎和江との対談「見果てぬ夢――対幻想をめぐって」『ニュー・フェミニズム・レビュー 第1号』一九九〇年、三三―三四頁)。注意してほしいのだが、ここで言われる「共感性・相互性」は、「わたし」を「社会的存在」に解消する言葉ではない。『知覚の現象学』でメルロ=ポンティは次のようにも書いたのだった。

私自身にとって私は〈焼きもち焼き〉でも〈詮索好き〉でも〈せむし〉でも〈官吏〉でもない。不具者や病人が己に耐えうることはしばしば驚きに値するが、それは、彼らが彼ら自身にとっては不具でもなければ死に瀕しているわけでもないからなのだ。(……)われわれは、誰もが、その意識の中心に立ち還るなら、自分は与えられた諸規定を超えたものであると感じながら、その上でそれらを甘受しているのである(『知覚の現象学2』邦訳みすず書房、四九六頁。ただし訳文は変更した)。

ここでは〈焼きもち焼き〉等々の属性が否認されているのではない。人間はそのような本質に還元されえないということだ。おまえはカタワだ、くたばり損ないだと、いくら他人から貶められようとも、実存としての人間、全体性としての「わたし」は、そんなレッテル貼りを超えた存在者である。僕にはそれは、ほとんど自明であるように思える。
 しかしながら、この主張に対して福岡愛子は「あまりにナイーヴな『わたし』宣言」であるとし、「どのような関係性においてであれ、『わたし』はつねに他者との関係におかれる社会的存在として概念化されなければならない」のであって、女性会議の場において上野が何よりもまず日本人として名指された以上、それを引き受けるべきだといった趣旨の批判を向けている(福岡前掲論文二八〇頁)。だが、先の引用箇所を文字通りに読むならば、そこで上野は「わたし」はどの関係性からも逃れられないということを認めた上で、しかし同時に「わたし」は諸関係性(から与えられる諸属性)の「どれかひとつに還元されることもない」というジレンマを問題にしているのだから、そうしたジレンマを構成する二項のうちの一項をとるべきだとするのは、批判としては上滑りしているように思われる。それとも福岡は、「わたし」が特定の属性ないしカテゴリーに「還元」されるべきだと言うのだろうか。たぶんそうではないだろう。残念ながら、議論はそれ以上の鮮明な像を結ばずに切り上げられているが、もしもジレンマを止揚する展望を福岡が模索しているのだとすれば、その方向性は上野とそれほど異なっているわけではないだろう。
 福岡と同型の主張をより具体的に、明確に行なったのは大沼保昭――元「慰安婦」たちに償い金と総理大臣(当時は故・橋本龍太郎)からの謝罪の手紙を手渡す事業を官民合同で進めた「アジア女性基金」の主要な担い手であり、右派からはもちろん、左派からも日本政府の加害責任を糊塗するものだと激しい批判や脅迫を受けた――である。大沼は言う。日本人が韓国人と「個人対個人」としてつきあうことができるというのは嘘だ。「相手が自分をどう認識するかということは相手の認識枠組みによって決まるのであり、自分で勝手に変えられるものではない」。したがって、相手から「俺はお前を日本人としてみて、植民地支配をやった日本人の、その子孫だと思っているんだ」と言われたら、「こっちは犯罪行為の法的な集団責任は認めないよというぐらいの反論はできるかもしれないけど、その他の道義的な部分については、わたしは自分の立場としては反論すべきでないし、できないと思う。(……)他者の認識においてすでにわたしが日本という国家と一体化していることを引き受けることなんじゃないですか」。これに「そんなこといっても、一国民が政府を代表することはできません」と反論する上野に対し、大沼は「もちろんできませんよ。しかし、ここでの問題は、『一国民が政府を代表すること』ではない。また、アジア女性基金は『一国民』ではない」と切り返すのである(大沼前掲書一三八―一八九頁)。
この短いやりとりの中には、きわめてクリティカルな問題群が濃縮されている。他者がこの私をある特定のタイプのトークンとして認識しているとき、そのことに相応の理由を認めるならば、私はその視線を何らかの意味で「引き受ける」べきだという大枠には僕も(おそらく上野も)異論はない。だがそれは、どのような意味においてなのか。私が何者か(本質!)という定義権を丸ごと相手にゆだねなければならないのか。また、ここで興味深いのは、上野が大沼の用いた「国家と一体化している」という表現を、「政府を代表する」と言い換えていることである。その理由は何だろうか。いったい、「わたしが日本という国家と一体化していることを引き受けること」は、「政府を代表すること」と同じなのか、違うのか。もしかしたらここで上野もまた、文脈次第では「わたし」が「国家と一体化」することを引き受けざるを得ないということを認め、それでもなおその不愉快な暫定的結論に対する抵抗の試みとして、「国家」を「政府」に、「一体化」を「代表」に、それぞれずらしてみようとしたのではないか。こうした推測が的を射ているかどうかは、残念ながらわからない。右のやりとりの後、両者の対話が別のテーマに移行してしまうからだ。
 たぶん上野は、「わたしが日本という国家と一体化する」ということの意味について、さらに大沼を問い詰めてみるべきだったろう。そこに、さらに議論を深めうる契機が秘められていたかもしれない。この論点をいま敷衍することは(与えられた時間と紙幅と僕自身の能力という三つの限界ゆえに)できないが、少なくとも分析しておくべき三つの問題軸についてだけ走り書きしておく。第一はいま述べた通り、「国家と一体化」することと「政府を代表」することとの(あるとすれば)差異。第二に、ある具体的な事象をみるときにどの視点を相対的に優先させるべきか(ジェンダーか、国籍か、エスニシティか等々)という問題と、たとえば「国籍」の視点をとる主体は「国家と一体化」ないし「政府を代表」していることになるのかという問題との区別。これは少しわかりにくいかもしれない。そんな区別はできないのではなかろうか、なぜなら、ひとつめの問題に「国籍」と答えることを条件として、はじめてふたつめの問題が意味をなすのだから……。確かに二つの問題が絡み合っていることは事実だが、両者の差異がないことにはならない。それを理解するためには、ある事象をとらえるのにジェンダーの視点を優先することと、自分が女性一般を代表しているかのようにふるまうこととの距離を考えてみればよいだろう。同じように、ある事象をみるのにジェンダーよりも国籍やエスニシティの視点の方が相対的に重要だと主張することは、必ずしもみずから国家を代表することとイコールではないはずである(それがたしかに際どい差異ではあるとしても)。第三に、いわゆる戦後世代の戦争責任論/戦後責任論の文脈において問題とされる「戦争に関連する何らかの責任が戦後世代にもあるとすれば、過去の戦争そのものについての責任か、それとも戦後の、むしろ現在についての責任か」という対立軸がある。上野がこれに関連して「二重の犯罪の重さ」という言い方で論じている内容は重要である。次にその議論をみていくが、そのための準備として、まず僕自身の「慰安婦」問題との(ささやかな)関わりについて簡単に記しておきたい。

 4
僕が「慰安婦」という存在について知ったのは、ちょうど上野千鶴子を通してフェミニズムを知ったのとほぼ同じ時期、一九八四年前後のことだった。大学の二年か三年生の頃だったはずだ。どこそこのゼミ旅行は韓国へのキーセン観光だったらしいといった噂に胸やけのような気分を感じていた、そんな時代のことだ。きっかけは全く覚えていないのだが、千田夏光従軍慰安婦』(一九七三年)、金一勉(キムイルベン)『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七六年)を立て続けに読み、僕は深甚な衝撃を受けたのだった。これらの著作は今日、被害者女性たちに対してせいぜい男性目線の同情しか向けていないとして批判されているが、そしてその通りではあるのだが、少なくとも歴史的事実の一端を伝える価値ある仕事ではあったし、読者をして「慰安婦」制度への深甚な怒りを喚び起こすには十分な内容を持っていたと思う。正直に言えば、このとき「慰安婦」についてわずかであれ知ったという経験こそが、僕がフェミニズムに本当に深い関心を抱く決定的な契機だったのだ(このことの意味については、後でもう少し詳しく考察する)。
 だから僕は、一九九一年に元「慰安婦」が名乗り出たときには、少なくともそのような問題があるということだけは知っていて、ようやくこういう日がきたのかと思った。その後、大沼保昭が二〇〇四年度に主催した東大法学部のゼミナール「『慰安婦問題』を通して人間と歴史と社会を考える」には、外部聴講生として参加させていただいた。そこでは、元「慰安婦」の方のお話を直に聞くという貴重な経験を与えられ、また大沼の現実に対する関わり方の誠実さ(と、どこか余裕のある風情)に強い印象を受けた。ただ、欠席せざるをえないことが多く、先ほど触れた大沼と上野とのやりとりが行なわれた回にも出られなかったことは残念だった。
 このように「慰安婦」問題について自分なりに考え続け、それについて小さな文章を書いたりもしたけれども、ただし僕は、はじめてそれについて知った学生のときから、それを歴史上の特異な出来事としてみるよりもむしろ、戦時強姦の問題に、さらには平時における性暴力に、そして性差別全般に直接つながる問題として感受する傾向が強かった気がする。言い換えれば、それを国家間の侵略戦争や民族差別の軸よりも――もちろん、それを無視したことなどないが――第一義的にはジェンダーの軸において、すなわち男性の性欲と攻撃性の解剖と批判という問題意識から受け止めてきたのである。こうした感覚が、あくまで男の側からの脳天気なモンダイイシキに過ぎないとしても、少なくとも形式的には上野の態度に通底していることは明らかだろう。
 だがそのことよりもずっと重要な問題をはらんでいると思えるのは、これもまた学生のときから基本的に変わらない、次のような感じ方である。すなわち、もしも自分が戦場に置かれたら、と想像するとき、俺は強姦したり慰安婦を買ったりしないと言い切る自信は、僕にはないということだ。従軍経験の只中で、「趣味」の問題として強姦しないことをみずからに宣誓した小説家・富士正晴ほどの矜持を自分が戦場で持てるかどうか、僕は(情けなくも)疑わざるをえない(参照、彦坂諦『人はなぜ兵になるのか』罌粟書房、一九八四年)。だから強姦者たちを許せというのでは全くない。自分が罪を犯したならば、僕は自分自身に絶望するだろう。そして言い訳はしないだろう。性暴力加害者は、あくまでも断罪されるべきだ。そこには微塵の疑いもない。
だがそのことを何度でも強調した上でなお、次のことを書いておかねば嘘になる。それは、僕が性暴力の加害そのものよりも一層深く、いたたまれないような嫌悪に憑かれるのは、「慰安婦」に対する男たちの、また世間の多くの人びとの、その後の対応について考えるときだということだ。今日の性暴力論における二次的被害(セカンドレイプ)の問題である。強姦自体よりも、強姦を正当化し、責任転嫁すること。たとえば戦場での強姦を、本能だから仕方がないと言うこと。たとえば小児虐待者が被害者の子供に対して、こんな目にあうのはお前が悪いんだよと言うこと。そうしたふるまいが、そのおぞましさにおいて、強姦や虐待という行為そのものより少しでもマシだとは思わない。同じことは、セカンドレイプの加害者が、ファーストレイプの加害者とは別の人びとであっても変わらない。たとえば、日本陸軍に見捨てられ中国大陸に残留した人びとが日本への引き揚げのために移動中、ソ連兵に「慰安婦」として差し出された女性たちによって命を助けられながら、彼女たちに詫びるでも感謝するでもなく、蔑みを向けた庶民たち。想像を絶する苦しみを味わった人たちを、ただその被害経験がただセックスに関連しているというだけで、どうして汚れた者として扱い、口を封じ、社会の周縁に追いやることができるのか。語弊を知りつつ僕は、そこに性暴力行為自体を生み出す欲望よりもさらに低劣な精神のありさまを見出したくなってしまう。
 こうした感じ方自体は僕個人の感受性や思考法の癖のようなものに過ぎないかもしれない。けれども上野が、「従軍慰安婦」とは「過去の問題ではなく、現在の問題なのだ」、「わたしたちが現在進行形で加担している犯罪なのだ」と言い、それが「第一に戦時強姦という犯罪と、第二に戦後半世紀にわたるその罪の忘却」という「二重の犯罪」であること、そして「第二の犯罪については、被害者に被害の認知を拒むことによって、日常的・継続的に半世紀にわたって続けられてきた『現在の犯罪』だということ」を強調するとき(『ナショナリズムジェンダー』一〇〇―一〇一頁)、それを読む僕は自分の中に普遍性への通路を見出すことができる(さらに上野は、「現在保守派の人々によって、被害女性の告発が否認されていること」を「第三の犯罪」とも呼ぶが、これは「第二の犯罪」の下位分類であろう。それも含めて「わたしたち」の犯罪なのだと言いたい)。そして現実には、僕自身は「第一の犯罪」を罪を犯さずにすんだ(すんでいる)が、「第二の犯罪」を免れてはいない。ここに見出されるのは、誰か他人から指さされ告発されたから生じたのではない、「わたし」がいかなるカテゴリー化をも超え出る存在者であるからこそ引き受けうる「責任」である。

 5
 上野千鶴子が言う「わたし」の概念をさらによく理解するために、最後に連合赤軍をめぐる彼女の発言をみていこう。ただしその前に、この言葉すら知らないかもしれない読者のために――僕はこのエッセイの主な読者として、ふだん接している大学生たちを念頭に置いている――最低限の注釈をしておきたい。一九七二年、連合赤軍という、若者たちが集う左翼(共産主義武装団体において、何人かの男女が共産主義革命の理念に反するという名目で仲間から「総括」という名のリンチを受け、殺されていたことがあらわになり、首謀者たちが逮捕された。これが連合赤軍事件と呼ばれ、一九六〇年代末以来の若者たちによる社会革命の夢想が、見るも無惨に崩壊したことを象徴する事件だとされている。永田洋子はその連合赤軍の副代表であり、女性であること、また代表の森恒夫が獄中で自害したこともあって、現在に至るまで連合赤軍事件を象徴する存在として扱われている。
 ジェンダーの視点から連合赤軍を考えようとする者にとって必読の一書である大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍――サブカルチャー戦後民主主義』(文芸春秋、一九九六年)は、同時にそのままでほとんど上野千鶴子論でもあると言ってよい。そこに収められた一連の強引な飛躍の目立つ、しかし抗しがたい説得力にあふれた一連の連合赤軍論/永田洋子論のなかで、大塚は繰り返し上野千鶴子の議論に(肯定的にも否定的にも)論及している。上野による一九八〇年代消費社会論を主要な参照枠組みとしつつ、同時に上野を「消費を通じた自己実現」への憧れという消費社会的感性の(たんなる分析者ではなく)主導者であるとするその議論の構えは、すでに上野から「状況を分析する観察者の水準と、状況それ自体の水準」とを混同するなと批判されていたものだが(『ニュー・フェミニズム・レビュー第1号』一九九〇年、九九頁)、その数年後においてもなお、大塚は上野を八〇年代消費社会の鋭利な分析者である以上に、その主導者にして体現者としてとらえている。そして大塚によれば、その限りにおいて上野千鶴子が(糸井重里とも並んで)「総括死しなかった連合赤軍の人びとであったことは明らか」なのである(大塚前掲書三一頁)。
 どういうことか。大塚はまず、永田洋子が獄中で描いた「乙女チック」なイラストに、七〇年代少女まんがと八〇年代消費社会において確立された「かわいい」という心性に共通する要素を見出し、そこから、永田が(当時の週刊誌がミソジニー剥き出しでデフォルメしたのとは違って)同時代・同世代の多くの女性たちからかけ離れた怪物などではなかったこと、すなわち一方では自立した女性になることを願いながら、他方では男性および男性優位の世間からの承認なしでは自己肯定できないという、現在においてもありふれた葛藤を抱えるひとりの若い女性に過ぎなかったことを剔抉してゆく。「総括」された女性たちだけでなく、殺す側にとどまり生き残った永田洋子も、仲間の男たちがあからさまに示す「男性支配的な価値」(強姦や中絶を笑いのネタにして痛まない、相も変わらぬ男たち!)に対して深い「生理的な違和」を抱いていたことには変わりない。だが彼女らは(後の上野千鶴子のようには)それをうまく言語化することができず、結局は男どもの生硬な「革命思想」に翻弄されることしかできなかった。だから、もしも彼女たちが運良く生き延びていたなら、やがて八〇年代消費社会の一員となり、雰囲気としての〈フェミニズムのようなもの〉が解放した「消費による自己実現」の担い手となっていただろうと言うのである。
ここでは連合赤軍の女性たちが消費社会の門前で挫折したことが鋭く分析されている。だからといって、理路を逆転させ、上野や糸井といった消費社会の立役者たちを連合赤軍と同一視するのは、トマトもリンゴもどちらも赤いから同じ植物だという類いの詭弁である。しかし、それが何かを言い当てているように思われるとすれば、ひとつには上野や糸井が学生運動の闘士であったという事実を大塚が暗黙裏に引証しているからであろう。だがもうひとつ、論理的根拠という点では飛躍があっても、大塚の議論は結論的にはやはり的を射ているのではないか。そのことを確かめるために、大塚の上野論、フェミニズム論の行方をもう少したどってみたい。
当初、「八〇年代のフェミニズムは思想などではなく消費する女性たちの心性としてのみあった」と言い放っていた大塚は、それがフェミニズムの「矮小化」だとする上野からの批判に応えてか、やがて〈思想あるいは運動としてのフェミニズム〉と大衆化された〈フェミニズムのようなもの〉とを慎重に腑分けするようになる(前掲書八五頁)。その上で、後者が消費社会的感受性と、「性関係で積極的」たりうる「性的身体」という女性たちの二つの欲望を解放したことを肯定的に評価するのだが、それもまた「連合赤軍的なもの」からの解放という言い方でなされている(同六九頁)。大塚において、連合赤軍フェミニズムとは、消費=自己実現への欲望を折り目として、あくまでもひとつながりの位置に置かれているのである。
ここできわめて興味深いのは、七〇年代ウーマン・リブ象徴的形象であった田中美津が、しかも上野によるインタビューに答えるなかで、大塚と全く同じことを語っていることだ。

永田は男並み平等を求めて革命兵士を志すわけだけど、それって結局男という上位の存在から認めてもらうことで獲得していく身分だったのね。レストランで料理を食べ残したら、ポリ袋に入れて持ち帰ると言っていた現実感覚旺盛な永田。それなのに息がってるだけの赤軍派の男たちに承認されることを願った。タブン、そこからすべてが狂っていったのよ。(……)

自由や自立を願いつつ、「光は男から」という思いこみから自由になりきれずに、男並み革命家をめざして永田は努力し続けた。(……)自立した強い女になりたい、と願った。それゆえに永田は精一杯努力し、またそれゆえに道を誤った。願ったことが罪なのか、そんなことはない! って、私は叫びたかった。それで「永田洋子はあたしだ」といったのよ。(『戦後日本スタディーズ?60・70年代』紀伊國屋書店、二〇〇九年、三〇三―三〇五頁)。

おそらく田中は大塚の本を読んではいない。それゆえこの符号が全くの偶然ではないとしたら、まさに大塚が永田の描いたイラストや文書資料から推論した内容に、永田の同時代人としての田中がみずからの実感から、ひとつの裏付けを与えているとみてもよいだろう。かくして、フェミニズム以前で挫折した永田洋子という描像の信憑性は増し、同時にその裏面としての、「総括死しなかった連合赤軍の人びと」のひとりとしての上野千鶴子という描像もまた、説得力を増す。そして、誰あらぬ上野千鶴子自身が、そのことを裏打ちしているのである。最後にそのことをみていこう。

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 右に引用した上野による田中美津へのインタビューの中でかなりの分量を占めるのが、田中の「永田洋子はあたしだ」という発言をめぐるやりとりである。田中の真意はすでに引用で見たとおりだ。それに対して、上野はこの発言を「自分も永田と同じことをしたかもしれないという共感や同情」という意味に誤読してきたことを隠さず、田中が真意を繰り返し説明してもなかなか引き下がろうとはしない。こうした態度に示されているのは、ここに上野自身にとってきわめて切実な問題があるということでしかありえない。それはすなわち、ある集団・組織に属することで、個人が自由を失い、誰かの命令通りに仲間を殺しさえするという事実がほとんど必然のメカニズムであるならば、どうやって「共感性・相互性の思想」を現実のものとして確保できるのか、という問いである。それはもはやジェンダーへの問いでさえない。なぜなら上野はそこで、連合赤軍だけでなく、むしろウーマン・リブの集団活動のあり方に対しても、強烈な違和感を表明しているからである。

私が同時代のリブにどうしても乗れなかった理由は、コレクティブに疑心暗鬼があったから。政治の季節の後に、男たちはコミューンに行った。女たちはコレクティブに行った。あの連赤の後に集団をもう一度組もうと思う人たちの気持ちが、どうしても理解できなかったの。(……)連赤の人たちもひとりで立っていられない人たちが集団作ったわけよね。私は、集団を組んだ人たちの地獄を見せられた思いをしたわけ。(同三〇八―三〇九頁)

 それに対して、「どうもよくわからないんだけど、集団になって活動することイコール集団主義ってことになるわけ?」と反問する田中美津の方が、普通の意味では明らかに健全な感覚を語っていると言うべきだろう。たとえ上野の集団主義に対する警戒心が、自分はもしかしたら殺した側にいたかもしれなかったという「底なしの恐怖」のリアリティから湧いてくるものだとしても、集団活動一般の否定にまで結びつけてしまえば、それは松井隆志が「根深い共同性への不信」(『上野千鶴子に挑む』二三九頁)と呼ぶほとんど非合理な心情として批判されても仕方ないように思える。また、ここから翻って上野の言う「わたし」を解釈するなら、それはどうみても個と集団との対立図式に回収されてしまうのではないか。だとしたら、いったい「共感性・相互性」はどこへ行ってしまったのか?
このような問いが、はたして解答を与えることのできる問いであるのかどうかさえ、僕にはよくわからない。だがそれがどうであれ、上野千鶴子がこの問いを放棄することはないだろう。メルロ=ポンティの名に言及したのと同じ対談の中で語っているように、森崎和江が『第三の性』で描いた妊娠感覚の叙述を読んで「自己意識の中における他者との共生感覚が、もし女である事の属性の一つであるとすると、何という希望であろう」と感じた若き日から四〇年もの時間を、上野はこの問いに捧げてきたのだ。すなわち、単一のカテゴリーの特権化や本質化を拒否する〈わたし〉が、いかにしてみずからを痩せ細らせることなしに「他者との共生」を実現しうるのか――。最近著『ケアの社会学』(太田出版、二〇一一年)もまた、同じ問いの答えを別のやり方で(実証的な社会学によって)探る試みとして読むことができるだろう。「上野千鶴子という思想運動」(松岡正剛)はつねに変転し、しばしば矛盾を犯すけれども、そこに持続する意志はきわめて一貫しているのである。あらゆる振幅をつらぬく高次の一貫性、それもまた私たちを驚かせる「師」の条件ではないだろうか。