林芙美子『放浪記』

学生時代にはほとんど興味のなかった、明治から第二次大戦前までの文学をぼつぼつと読み始めている。二葉亭四迷の文章に対する驚きは旧い日記に書いた通りだが、しばらく前に読んだ林芙美子『放浪記』も嬉しい驚きだった。
 貧乏な若い女が職を転々としながら必死に生き抜いていくハナシ、ということは知っていた。TV番組で、着るものがなくてひと夏を一枚の水着で過ごす林芙美子の再現ビデオも観たことがある。しかし大衆受けしたこの『放浪記』という本がこれほどに鮮烈な文章に満ちて、いまなお瑞々しさを失わないどころか、歴史の変位をくぐり抜けながらいよいよ輝きを増す方向へ生き延びつつあるとは、不覚ながらまったく知らなかった。
 たとえば、どこかの洋品店で売り子をしていた頃のある日、脚気で悲惨な気分だったある一日のことを、林芙美子はこう書いている。


 ……店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそろえて、客を呼ぶのだそうである――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめである。薄いものずくめである。閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八十銭の私は売り子の人形だ。だが人形にしては汚すぎるし、腹が減りすぎる。「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」
 酸っぱいものを食べた後のように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。ガラスのピカピカ光っている鏡の面を一寸覗いてご覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿なのでしょう……。顔は女給風でそれも海近い田舎から出てきたあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たのです。ドミエの漫画ですよこれは……。何とコッケイな、何とちぐはぐな牝鶏の姿なのでしょう。(……)それに、サーヴィスがヘタだとおっしゃる貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴女はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく闘っているべき、彼も彼女もいまはどこへ行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食いものにして、強権者になる日のことを考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新しく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。
 夜――九時。省線を降りると、道が暗いのでハーモニカを吹きながら家へ帰った。詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけれど音楽はいいものです。

 この軽やかなリズムで流れ続ける文章には、陳腐なもの、が何もない。自分の気持ち、自分とその身辺のことだけを書いているのに、内面の吐露というやつにつきものの鈍重さがまるでない。もちろんすでにいまの日本人程度には近代人だった林芙美子には立派な内面があって、そこには反省も屈折も逡巡もたっぷりある(というか、『放浪記』の全編にわたって、そればっかりだ)。けれども、実は彼女は自分なんてものにはほとんど興味がないのだ。彼女の内面は世界といきなり太い幹でつながっている。そこから新鮮な水分と養分が絶えず送り込まれている。そうでなければこんな生命力あふれる文章は書けるはずがない。
 歴史はつねに新しく、そこで燃えるマッチがうらやましい――。それはスーザン・ソンタグ大江健三郎との往復書簡のなかで、大江がヘミングウェイについて言った「巨大な宇宙空間の底に赤裸で横たわっているという経験」を受けて、「エクスタシー」と呼んだ感覚に似ているようだ。もったいぶった恐怖と軽薄な憎悪の電磁波にがんじがらめにされそうな現在のただなかで、小さく燃えながら歴史の全貌を映し出す一本のマッチへの憧憬をリアルなものにすること、それこそが確かに僕が文学に求める希望なのだった。