草間彌生、オノヨーコ

 NHKの『英語でしゃべらナイト』で草間彌生を観た。略歴と作品の簡単な紹介の合間に、草間本人の短いインタビューがはさまる。英会話入門番組なので、当然ことばは英語だ。
 これがもう凄くて、動詞はほとんど原型だけ、発音は完全なカタカナ英語、それをどもり、つっかえながら、しかも早口で喋りまくる。何を言っているのか、耳にとまる単語から推測するしかない。たぶん彼女がかつて活躍したニューヨークの人びとは、何を言っているかまるでわからなかっただろう。なぜか目頭が熱くなってしまった。この人は、この英語で、アメリカを生き抜いたのか。いや違う、もちろん美術家としての圧倒的な力によってだ。番組では彼女の若い時代の写真もいくつか映し出された。細身の静かそうな少女が巨大なキャンバスに立ち向かっている。ただ作品をつくり出している、ただそうでしかありえないという佇まいが胸を打つ。草間彌生には英語の上達のために使う時間やエネルギーはなかったのだろう。だがことばは、その圧倒的な作品たちを閉じこめない程度のものでありさえすればよかったのに違いない。
 昨年、ようやく草間彌生のいくつかの作品を体験することができたとき、僕は深々とした幸福感を味わった。なぜだろう。どうみても<精神の闇>から吐き出されてきた風の暗い絵や、悪夢の脇役のような立体群、パラノイアックな水玉の乱舞が、どうしてこれほどにユーモラスで軽快に、観るものの精神をちくちくと刺激して、微睡みからはっと気がついてヨダレを垂らしながら目覚めたときのように、心地よく世界の手触りを取り戻してくれるのだろう。その余韻はいまも熾火のように僕の内部で微震動をつづけている。

 草間彌生の作品が<精神のマッサージ>だとすれば、オノ・ヨーコの作品がもたらしてくれるのは<精神の視力矯正>効果である。何のことだかわからないと思うが、いま思いついた表現がこれだった。『グレープフルーツ・ジュース』のどのページでもいいから、開いてみてほしい。たとえば、こんなページがあったはずだ(不正確な引用です)。<鍵をつくりなさい/その鍵が合うドアを探しなさい/見つけたら、そのドアに付属している家を燃やしてしまいなさい>。
 昨年はオノヨーコの回顧展もあって、素晴らしかった。限りなくシンプルでさりげなく、しかしひらめきと強い意志が充満した作品群。かの有名な梯子――かつて偶然ギャラリーを訪れたジョン・レノンが登って、天井に書いてある「Yes」の文字を虫眼鏡で見たやつ――もあって、これは残念ながら登らせてもらえなかったが、あの純白のチェスはもちろん実際に駒を動かすことはできた。そして、白い壁に描かれた、淡い色の短い線分。<この線分が、無限に大きな円の一部であると想像せよ>。
 でも何よりも楽しかったのは、会場にある電話にオノヨーコ氏本人が電話をかけてきたこと! 僕も二言、三言だけ話をさせてもらった。つまらないことしか言えなかったけれど、本当はずっと尋ねてみたいことがあったのだ。名曲「凧(Kite song)」はどのような場所から生まれてきたのか。彼女が凧に銃を向けたのはなぜだったのか。たぶん(間違いなく)、そんなことは自分で自由に考えなさいと突き放されたのだろうけれど。
 <誰もが街の中で暮らし始めるべきだ>(友部正人)。同じように、誰もがオノ・ヨーコを読むべきだ。金持ちがいい気な夢想を語っているだけだとかいうたぐいのみすぼらしい言い訳を無力な自分に許さないために。ただ精神の自由のために。