メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

 メキシコから不法入国してきた親友メルキアデス・エストラーダを国境警備員に(事故とはいえ)射殺されたテキサスのカウボーイ、ピート・パーキンズは、犯人の国境警備員マイク・ノートンを拉致し、すでに埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り起こさせ、メルキアデスが生前に望んでいた故郷ヒメネスに埋葬し直すため、ノートンを連れて国教を越える旅――アメリカからメキシコへの「不法入国」――に出る。これが映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の粗筋だ。
 スクリーンに映し出されるのは、テキサス〜メキシコ国境地帯の、あくまでも不毛の、雄大な荒野。それを眺めているだけでも濃厚な時間が過ぎてゆく。そこに、いっさいの無駄も過剰もない造形の登場人物たちによる人間模様が絡み、観る者をダレさせない。渋い傑作だ。

 ところで、パンフレットには川本三郎が例によって例の如く中身のないことを書いていて、だいたいすでに映画を見終わった観客向けの文章でだらだらとストーリーを要約して(しかも別のページに粗筋は書かれているのだ)、あいだにちょこっと感想文を挟むという商法全体が詐欺に近いと思うのだが、それ以上にしょーもないのはその内容で、曰く一行目から「久々に男っぽい映画である」。どこからそういう言いぐさが涌いて出てくるのか、どういう鈍い感性をしとるのか、まったくわからん。たしかにプロットは<男同士の友情>を軸にしている。血も暴力も描かれる。女たちは倦怠を持て余した中年のウェートレスに若奥さんという類型的きわまりない(とはいえアメリカ南部のひなびた街におけるリアルな)配置だ。けれども、もしも「男っぽさ」が力強さ、ガサツさ、鈍さ、高みから見下ろそうとする欲望(そうしようとせずにはいられない劣等感と不安)……といった通常の意味を表すのだとすれば、この映画にはそうしたものの感触はほとんどない。むしろ映画全編に漂うものは、軽いユーモアと、「しがない」感じ、弱々しさであり、そうしたあり方に対する赦しの感覚である。とりわけそれは主人公パーキンズ(トミー・リー・ジョーンズ監督の自演)に体現されているのだが、象徴的なのは彼がメキシコから愛人のウェートレスに泣き言めいた電話をかける場面だ。この弱々しさ、しかしそれを「男」だなんだという頭の悪い言い訳に回収せず、ただ弱々しく自らに課した義務を遂行しつづけるたたずまいは、いかなる意味でも「男っぽさ」という語感から遠くはずれた凛々しさを湛えていた。メルキアデスを殺した国境警備員マイク・ノートンが、パーキンズに強いられた旅の過程で、ただのくだらないごろつきから人間的成長を遂げていく様子も、ぼくにはむしろ、「男」の分厚い皮膚が次第に破かれて、内部から生々しく傷つきやすい肉が露出させられた後、あらたに薄い皮がその上に新生する過程のように見えた。ラストシーンのマイクの顔は、その新しい皮膚によって包まれているのであって、かつてのごわついた「男」のものではなくなっているのだった。