アナーキズム

 このあいだ、近所のブック・オフで買って読んだ浅羽通明『アナーキズム』(ちくま新書)はなかなか面白かったし、知らない人物誌もたくさん書かれていてお得だった。とりわけ印象的だったのは次の2点。ひとつは、松本零士アナーキズム思想を『キャプテン・ハーロック』『銀河鉄道999』に、そして『宇宙戦艦ヤマト』をめぐる騒動に対する松本の対応に読み込むところ。ぼくは松本零士のエロティックなマンガは好きでよく読んでいたが、中学生のとき、周囲でフィーバー!していた『ヤマト』にどうしても馴染めなかったので、彼のアニメには詳しくない。しかし浅羽の分析を読んで、近いうちに松本関連作品をまとめてちゃんと観ようと思った。
 もうひとつの論点は、本書の最後に出てくるのだが、浅羽が東浩紀・ 大澤真幸『自由を考える――9・11以降の現代思想』(NHKブックス)を批判して、<誰もが自由を望むべきだなどと決めてかかるのはインテリの驕り>と書いていたことだ。これはきわめて重い問題で、浅羽もきちんと論じきっているわけではないし、なかなか腑に落ちず、ずっと気に懸かっていた。それが、数日前の『朝日新聞』で、海外特派員のコラムに書かれていたことを読んで、また改めて思い出されたのだ。その記事によると、大統領の独裁が国内外で非難されているベラルーシを取材していたとき、現大統領を支持する一人の老婦人が気色ばんで言ったそうだ。<自由なんて、ならず者たちが得するだけだ!>と。ぼくは自分にとって「自由」こそが最高の価値であるということを疑い得ないし、社会にとってもそれが最高の価値のひとつであるべきだという確信を抱いている。でも、斉藤貴男氏や森達也氏のような議論に、おれだってそう言いたいと思いつつ、どうも乗り切れないのは、自分自身はともかく、自分の身近な人びとの現状を考えると、あのベラルーシの老婦人の気持ちもそれなりにわかるからなのだ。ただ安らかに死ぬまで暮らしたいだけの、しかも立場の弱い者たちが、監視社会でも豊かで治安がいいことを望むのは、ある意味では当然だろう。少なくとも社会的価値としての「自由」を肯定する議論は、「自由」の名の下に実際には踏みにじられがちな人びとの声にも応えうるものでなければならないはずだ。