イチロー、松井、王、張本、金田

 世の中、というか少なくともネットの世界で、自分以外の議論に対するアイロニカルな梯子はずしが蔓延しているのは、北田暁大の快著『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)が見事に記述・分析した通りだ。言うまでもなくそれはしょーもない知的退廃の光景なのだが、しかし北田の議論が単なる「若者叩き」(自分には理解できない異質なものを叩く年長世代というお馴染みの構図だけでなく、相手が自分に隣接しているがゆえの不安から過剰な差異化を図ろうとする同世代の若者たちによるものも含めて)や年長の良識派たちによる「目を覆う中傷の嵐」的な、正当ではあるが、言ったからどうなるの?と思わざるをえない種類の非難から遠く離れていたのは、ぼくなりに粗雑に言い換えれば<ベタへの希求>とでも呼ぶべきものを、アイロニーの裏側に、むしろそれを駆動する必然的な情念として見出していたからだったと思う。おおむね、<ベタへの希求>衝動は、チンケなナショナリズムによって充填されている。それは誰もが指摘している通りだし、誰もが指摘できる程度のありふれた現象にすぎない。しかし「ウヨ厨」というこれもアイロニカルな非難の言辞に注目する北田は、ぷちナショ以降のナショナリズムが必ずしも完全な充填を果たさないことを見抜いていた。あの本の末尾に引用された、2ちゃんねるに書き込まれたナンシー関による(もちろん架空の、念のため)冥界からの惜別の辞は、そんな希望を捨て去ってしまう必要はないことくらいは示唆していただろう。

 それにしても、単にどーしようもなくベタな人たちというのはいる。それは春になると桜が咲くのと同じで、かつて柄谷行人スピノザを論じる文脈で「自然成長性(大衆)」と表記していたが、まあそういうことなのだろう。何を言いたいのかというと、WBCが終わったあと、直ちに「イチローの意外な愛国心に感心した」とか「国家代表を断った松井は非国民だ」的な、あぜんとするしかない最低レベルのベタなナショナリズムパトリオティズムではない)が、右翼メディアや掲示板だけでなく、そういう話題とはまったく関係のないはずの(たとえばカメラ情報の)掲示板まで浸食していることだ。

 ぼくはスポーツ観戦が大好きで、もちろんプロ野球は日本のも大リーグも大好きだ。ヤンキースマリナーズの試合は毎朝観ている。イチローも松井も最高の選手である。こういう人間はぼくだけではないはずで、そしてそういう人間であるならば、イチローと松井の今回の行動の違いは少しも意外ではないはずだ。厳しいプロスポーツの最前線で闘うためには自分を燃え立たせるものが必要である。それを備給するやり方が、置かれている環境も性格も(当然)まるで異なるイチローと松井とでは違ったというだけのことだ。このことを理解していない、つまり野球を観ることに特別の情熱をもたない連中が、今回の件で口出ししていても、それをまともに受け取ってはいけない。それが低能な2ちゃんねらーであれ、「知識人」であれ。ずっと前にもサッカー日本代表について書いたことがあるが、かれらをナショナリズムの道具に貶めることがあってはならないのと同様に、ナショナリズム談義の道具に貶めることも愚劣なのである、ということを何度でも確認しておきたい。

 その意味で、小説家・星野智幸が『東京新聞』(2006年4月3日夕刊)に書いたエッセイ「差別はなかったか――WBCがまとう暗いナショナリズム」にも、いくらかの違和感がある(内容は、どこかで探してお読みください)。いや、念のために言えば、星野氏の議論そのものには、ぼくはほとんど賛成なのだ。少なくとも、<イチローナショナリズム>に追随した軽薄な人たちに対する批判の部分についてはそうだ。イチローが使った「屈辱」という言葉の意味作用については、イチロー自身の文脈からすれば言いがかりだと思うが、社会的な効果としては「差別」的だというのも、認めざるをえないだろう。でも問題は、その<社会的効果>なのである。どうしていちスポーツ選手が、そんなことに責任を負わなければならないのか。明示的に「韓国人はバカだ」とか言ったのなら話は別だが、イチローの場合は違う。彼は、暑苦しいほどに、全身全霊をかけて野球をやっている。だからこそ、世界最高レベルの試合で、相手に競り負ければ、それは「屈辱」なのである。それは事実として、あらゆる種類の救いようがなくベタな人たちを引き寄せてしまった。しかしそれは、本当は、きわめつけの個人的な、実存的な、いわば異様な語彙なのである。そのことを理解できないような人が、右翼だろうが左翼だろうが、プロ野球について語っているのを見かけたら、苦笑して通り過ぎること。

 その上で、ぼくが何よりも言いたかったのは、次のことだ。WBC日本代表チームの勝利は、ぼくがずっと愛してやまない、偉大な王貞治の勝利で(も)あったということ。けだし、今大会の優勝は、ダイエーホークスが日本一になったとき以来、数年ぶりに、王ファンが溜飲を下げることのできる機会だった。
 王さんについては、ずっと昔の日記にも書いたが、また重複を怖れず書く。かつて落合博光の奔放を王貞治(監督)の硬直と対比して持ち上げたアホな批評家は、当の落合が『朝日新聞』へ寄稿したときに、名指しで「王がコミッショナーになるべきだ。王の目はつねにファンに向いている」と主張したことをどう考えるのか。巨人監督時代の王がリリーフに鹿取を起用しつづけたとき、「小心」な采配云々と罵倒したアホな批評家は、もちろん昨今のプロ野球に定着した中継ぎ・抑えのリリーフ・システムを全否定しなければならないはずだが、誰もそんなことを言っていないのはなぜなのか。阪神タイガースの継投策をJFKだとかいって礼賛している連中の中に、王監督の継投策を非難して「先発完投が本来の野球」云々と言ったやつがいなかったとは言わせない。鹿取自身、「あのときは色々言われたが、自分はあれで鍛えられたと思っている」と発言していたではないか。プロ野球について訳知り顔で何かをいう「知識人」たちは、こうした一次資料をどうして無視するのか。

 そして、ナショナリズムについて。もう一度、念のために書いておけば、星野智幸の議論は、野球を歪んだナショナリズム高揚の道具として(あるいは個人単位で言えば、弱者が劣等感を裏返す契機としてナショナリズムを口にする、そのためのお手軽な道具として)利用する連中に対する批判としては、的を射た、貴重なものではある。かねてからぼくが思っていることを、それにつけ加えておこう。
 日本のプロ野球史をふり返ってみよ。ホームラン数の最高記録(868本)は、中国系二世の王貞治。安打数の最高記録(3085本)は、韓国系二世の張本勲(彼の母親は、第二次大戦中、身重の状態で朝鮮半島から海を渡り、広島で張本を産んだ)。投手では、最多勝理数は、やはり在日コリアン二世の金田正一。シーズン最高打率(.389)は、アメリカ合州国からの助っ人ランディ・バース。これらの記録を見れば一目瞭然だ。日本のプロ野球を長らくリードし、その質を高めることに貢献してきた、最高峰の選手たちは、外国人やその二世選手たちだったのだ。日本プロ野球のファンたちは、そのことの重みを、もう少し知るべきだと、ぼくは思う。もっと端的に言えば、「日本野球」が中国や韓国からやってきた人材に支えられて向上したことを思い、かれら名選手たちに深く敬虔な感謝を捧げるべきなのだ。今回のWBCで韓国の野球のレベルの高さを見せつけられて驚いた人が多かったようだが、そんなことは不思議でもなんでもない。金田や張本を(「二世」としてであれ)輩出した国なのだから。そのことを知った上でこそ、張本勲が、米大リーグへの選手流出を快く思っていないということ(日本野球界への感謝を忘れているから、という理由ゆえにだという)の重みに、思いを馳せてみることも意義があるだろう。張本はまた、王監督が優勝したときに、「今までワンちゃんを馬鹿にした奴らは、全員頭を丸めろ!」と叫んだという。(ちなみに王は、WBC後の記者会見で、大リーグ行きについて質問された松坂が言葉を濁していたとき、横から「すぐいっちゃえば?」と茶々を入れていた。このストレートな軽妙さこそが王貞治である。)
 ついでに言うと、ランディ・バースが1985年にシーズン55本目のホームランを狙っていたとき、王監督率いる巨人の投手たちがバースと勝負しなかった逸話は(不必要なまでに)有名であり、バースがそのとき「自分は外人だから、新記録はつくらせてもらえないだろう」と語ったことも人口に膾炙している。そこには複雑な背景があっただろうと思う。少なくとも、このエピソードから王貞治を一面的な(「小心」!)イメージでとらえることはしてほしくないな。公正さのために、かつて巨人で活躍したウォーレン・クロマティが、自伝『さらばサムライ野球』の中で記していた一節にも、それ相応の注意を払っておいてほしいと痛切に思う。クロマティはそこで、日本時代の孤独に言及し、王貞治にも触れている。あやふやな記憶だが、クロマティ氏は、だいたいこんなふうに述懐していた。<しかし王監督だけは僕を理解してくれた。それは王さん自身が、日本では「ガイジン」だったからだと思う。>クロマティ氏は、自分の息子のミドル・ネームに「オー」とつけている。
  王貞治を「ガイジン」にしつづけてきたものは、いったい何だったのか。狭量な「日本」などという妄想のせいにはできない。むしろ、それは「誰」なのかと問うべきだろう。いや、こんな修辞疑問を弄しているヒマはない。それは言うまでもなく、ぼくら、「日本人」だったのだ。そのことを深く胸に刻みつつ、ぼくは王監督の勝利を、いまいちど喜びたい。今大会を通じて、「世界一」という言葉を一度たりとも口にせず(なぜなら今大会が諸々の理由により必ずしも実力世界一決定戦とは言い切れないことをごまかさずに直視していたから)、あくまでも「日本野球を世界にアピールするために」と言い続け、優勝後も「日本野球を世界にアピールできたと思う」と語った中国系日本人・王貞治に、心からの祝杯を!