生と権力の哲学ほか

 檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)。フーコーのいわゆる「生権力」論と、それをめぐるドゥルーズアガンベンネグリらの批判的展開についての要約・解説として、よくまとまっている。フーコーたちの本を読んで頭を抱えている大学生諸君には良いガイド役になると思うが、もう一歩先の話になると、物足りない感も残る。たとえばドゥルーズの『フーコー』――学部のとき、高橋準君たちと一緒に四苦八苦しながら原書を読んだのが懐かしい(遠い目)――に沿って、こんな風に言われているのだが――

「抵抗」とは人間によって行なわれるものではない。「人間」の視線に依拠して何かを述べたとしても、それは「人間」であることを支える<生権力>に絡めとられるだけである。そうではなく、われわれ自らが「人間」の「外」の「力」である可能性を秘めていることを、徹底的に見いださなければならない。端的に「人間」の「外」にあるものが「生命」である。それはわれわれにとって異様な面持ちにおいて現れるかもしれない。そこでは、物質としての生命そのものが、「人間」という枠組みの「外」で、多型的な可能性を生みだすのである。情報と生命のテクノロジーは、われわれにとって、こうした「生命」の力をとりだす契機でありうる。生権力的なものに「抵抗」することは、こうした「非―人間」としての自己を見いだすことにおいて、積極的に描かれるべきではないのか。(156頁)

 まあ、そうかもしれないが、それでどうせいっちゅーんじゃ、というか……。もちろん著者は妊娠中絶だの脳死臓器移植だのをめぐる個別的な議論にちゃんと注意を払っているし、その上でこの本ではいわば骨太の理論的方向性を打ち出したかったと明記しているので、あまり言っても不当な無い物ねだりになるのだが、僕の感じる物足りなさはどうもただ単に抽象的な議論だからいかん、という質のものでもないようなのだ。それはむしろ、まさに理論的な水準での煮え切らない感じなのである。

 手元に本がないので、メモとして書いておく。フーコー『言葉と物』で、19世紀以降の「生物学」の誕生と、その条件としての「生命」という観念そのものの発明について語っていたはずである。そしてそれは「人間」の誕生と相即不離であった。ということは、簡単に言って、「人間」をやっつけるのに「生命」をもってくるのはおかしいのではないか。僕がずっと感じているのは、むしろ「生命」という観念こそ、深く疑い、還元すべき当のものなのではないか、ということだ。もちろん、フーコーの歴史像をどこまで正直に受け取れるかという問題はあるが、少なくとも彼はこうした方向性へ問いを押し進めるためのヒントをくれた。
 <生権力>は「人間」の「生(命)」そのものに深く関与し、それを内在的に管理・運営する。そこで注意すべきことは、介入される「生(命)」があらかじめあったのではなく、「生(命)」という定在そのものをつくりだすことから<生権力>は始まった、ということだ。
 そうだとすれば、<生権力>への抵抗は、何よりも「生(命)」という観念とその作用への抵抗でなければならないはずだ。

 こうした観点から、僕はアガンベンの『ホモ・サケル』における「ビオス/ゾーエー」という対比にも、満足できない気がしている。それは結局、どちらも「生(命)」なのではないかという疑問がどうしても拭えないのだ。僕は誤読をしているのか、それとも何か勘違いしているのだろうか? けれども、生殖操作や人間の資源化といったことがそもそも「問題」、しかも倫理の問題であるのはいったいなぜなのか、ということを考えるなら、「生命」という観念を疑わない思考は、むしろ最も重要なものをいつのまにか隠してしまうように思われる。だって、「生命」なんて、別にあってもなくてもいいものでしょ? <誰々が生きている>という事実から切り離された「生命」は、我々にとってはせいぜい「環境」でしかなく、倫理学的には二次的な重要性しか持たない(持つべきではない)。真の問題は、<誰々>と<我々>とのズレにある。

 とはいえ、このあたりのことは、僕もまだ全然整理できていない。手がかりだけは無数にあるのだが、それをうまく星座として描くことができないのだ。来年の夏には出したいと思っている本で、もう少しきちんと展開したいと思う。