二つの国家観

 内藤朝雄「二つの国家観」(『図書新聞』第2782号、2006年7月15日、時評思想)が激オモ。国家観には二種類ある。ひとつは「国家を、一人一人の人間の共存と福祉のための公共財である機械装置(からくりしかけ)と考えるもの」で、このような国家は「水道や電気や医療や交通網のように、人々の生存にとってきわめて重要な」インフラストラクチャーだから、私たちはこれをできるかぎり良いものにしていかねばならない。他方、「国家を一人一人の人間の生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とする国家観」は、非常に短期間だけ人々を狂わせるためのドラッグであって、必要のないときには使ってはならないし、仮に生存のための必要に駆られて使うときにも、「そのまえに目覚まし時計をセットしておき、ときがくれば醒めるようにしておかなければならない」。そしてこれは、もはや21世紀の世界には必要のないものだ。
 ……と、ここまではナイスなレトリックが炸裂しまくるものの、基本的にはオーソドックスな国家論であると言えるものだが、スリリングなのはここから先だ。内藤は、集合的生命としての国家という幻想を大衆に植えつけ、また指導者たち自身もそこに自家中毒していったしかけを「アッパー系の天皇」と看破し、それを「ダウナー系の天皇」と区別する。そしてアッパー系天皇カニズムの暴走を抑止し、それをダウナー系天皇へと「デザイン変更」し、さらに「普遍的ヒューマニズム」へとつなげるべく自覚的に行動し続けてきたある人物を明確に名指し、「彼」への支持を表明するのである。

 彼・明仁天皇の、今から二、三ヶ月前に行なわれた、たぶん外国人記者向けの会見の様子そのものを僕は見ていないが、彼がそこで語ったことの概要は、古館の「報道ステーション」で聞いた。最近の社会情勢について思うことを問われた彼は、それに直接には答える立場にないことを慎重に表明しながら、次のように語ったという。――戦前、テロルや軍部の暴力が吹き荒れ、言論が弾圧され、優れた政治家が何人も暗殺された。あのような時代が二度とこないことを望んでいる、と。
 数年前の園遊会において、東京都教育委員として国旗掲揚・国歌斉唱の強制および違反者への処分に血道をあげる米長邦雄に対して、穏やかに「強制ということのないように」と言葉をかけた彼の孤独な佇まいと、その場では「はい、それはもう」と頭を下げた米長の厚顔無恥、思わず目をそむけてしまわずにはいられない卑小さとのコントラストが、いまも強く印象に残っている。

 僕の親は疎開組で、戦時中の苦労話はよく聞かされたものだ。同級生の多くも、似たような体験があったのだろう。小学一年生のとき、「日本人はいまでもアメリカを恨んでいるのでしょう?」という質問を、なぜか大挙して担任の先生に訊きにいったのを覚えている。訊かれたほうも困っただろうな。そんな雰囲気がまだ残るなかでは、子供といえども天皇はまだ現在とは違う意味で妙に生々しい存在で、子供たちの口からよく聞かれたのは、「天皇たちは働きもしないで良い暮らしをしていてムカツク」という種類の言葉だった。
 それに対して、現在、天皇を羨む人などいるだろうか。よほど貧しい生活に苦しんでいる人ならありうるのだろうか。だがその場合も、ヒルズ族とかを妬むことはあっても、天皇あるいは天皇家と入れ替わりたいなどと考える人はほとんどいないのじゃなかろうか。少なくとも僕は、あんな自由のない、しかしつねに潜在的にありとあらゆる種類の精神的プレッシャーがかかっているような生活は御免被りたいし、事の真相はさておいて、雅子さんの心労のほんの一端ぐらいはわかるような気もする。

 内藤の論考には、いわゆる象徴天皇に対応した「象徴責任」という概念など、他にも重要な論点が満載されている。詳しくは次号でさらに展開されるそうだ。引き続き、必読。