平和な明日のために

2006年9月10日(日)
 日曜日。良い天気。午後からワシントンスクエアに出かけて、いつものようにアマチュア・ミュージシャンたちを眺めながら、近くのデリで買った昼飯を食べる。ミネストローネが具だくさん(というか、なるべく具をたくさん掬っただけなのだが)かつアツアツでおいしい。でも合わせて10ドル以上してしまった。

 その後、図書館で何時間かカントのGroundwork of the Metaphysics of Moralsを読んでから、夜7時からのイベントに出かけた。テロで家族や身近な人間を殺された人たちが中心となって、非暴力の反戦活動を地道にやっているPeaceful Tomorrowsという団体が毎年9月11日前後にいろいろイベントをやっていて、911五周年にあたる今年もたくさんの公開後援会や討論会や映画などが企画されている。今日のイベントはTranscending tragedy: Does Healing Require Forgiveness (悲劇を超えて:癒しには赦しが必要か)というタイトルの講演会で、スピーカーは下の写真の左から、ルワンダ内戦で家族・親族十数人全員が殺された男性(ロメイン神父)、911で国際貿易センタービルに突っ込んだ飛行機に夫が乗っていたという女性(アンドレア・ルブランさん)、三人目の人は残念ながら素性を聞き逃した、そして左端はコロンビアで非暴力の反政府活動をしていた兄が誘拐され、1年間拷問され続けた上に殺された女性(ソフィア・ガリヴィアさん)。

 僕はこういうとき、家族や恋人を無惨に殺された人たちが自分の目の前に現前しているという事実にまず圧倒されて、もうそれだけで目頭が熱くなってしまう。もちろんそこで踏みとどまるように気力を集中するのだが。そしてスピーカーたちの穏やかな佇まいに、このひとたちが本当にそんな恐ろしい目に遭ったのかと疑いたくなる。しかし話の中に<その時>をふりかえる局面が出てくると、淡々としゃべっていたルブランさんがふっと言葉が途切らせ、その空白にすっと頬を刺されたようにも感じる。現実は、にわかには信じがたいほどに無惨なのだと思い直させられる。

 ロメイン神父は、出来事の後にローマ・カトリックに改宗し、現在はボストンの大学院で牧者カウンセラー(っていう訳でいいのかわかりません)になる勉強をしているそうだ。たまたま外出していて虐殺を免れ、一緒だった14人の子供たちを連れてブッシュや廃屋で寝泊まりし、虐殺を目の当たりにしながら、その瀬戸際で1ヶ月あまりを生き延びたという凄まじい体験をこの人がくぐり抜けてきたのだということは、あたりまえのことだが、言われなければ思いもしない。そうだ、あたりまえのことだ。彼は生き延びて、ここにいるのだから。会が終わって、参加者たちと談笑しながら水を飲んでいる彼をみながら、そんなことをとりとめもなく思っていた。

 Healingという言葉が今日のタイトルにもあるが、この言葉は幅が広いのだと思う。ワシントンスクエアに「ヒーリング・コーナー」というものが登場していて、何をやっているのかと近寄って見ると、簡易ベッドの上に寝かされた人たちに「ヒーラー」らしき人たちが「気」を送っていた。何かの治療のつもり、いや、たぶんきっと何かが良くなるのだろう。そういうヒーリングもあれば、ロメイン神父のような人がいうヒーリングもある。両者はかけ離れているのだが、理不尽でも生きて行かなきゃならないという感覚は通底しているのかもしれない。日本語の「癒し」というのはあまりに軽くなってしまったが、たとえば大江健三郎が「恢復」という言い方で使うときには、もともとの深みを保存しようとしているのだろう。

 かれらは誰一人「憎しみ」を否定はしなかった。憎しみそのものについては何も語らなかった。誰もが、事件が起きたとき、自分自身はただ哀しく、孤独だったと言った。「赦し」も関係なかったと。そんなことではなかったのだと、誰もが口を揃えて言った。ロメイン神父はその後、刑務所に足を運び、ツチ族の虐殺に荷担した者どもに面会したという。一度だけでなく、何度も。彼が犯人たちを赦したのかどうかはわからない。彼ははっきりとはそう言わなかった。ソフィアははっきりと、自分は犯人たちを赦したわけではないと言った。ルブランさんは、憎しみそのものについては語らず、ただ憎しみとは別のあり方があるのだということだけを多くの人に知ってほしい、と言っていた。それだけではない、別のあり方があるのだ――それは単なる直視の回避ではないだろう。ミシェル・フーコーの多分にユートピア思想的な学術的著作に比べ、彼の政治的発言がきわめてリベラリズム的だったことを思い出しつつ、ロバート・ノージックの構想に欠けていたのはこの<別の可能性>を肯定すること、<移動すること><変化すること>の肯定ではなかったか、などと思いながら、「自由な状態」などというものは撞着語法であること、自由とは動くことであること、そこにリベラリズムの強靱さが宿るのだろう、などとぼんやり考えた。
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