ロックンローラー、オノ・ヨーコ

 とっても平凡なことを、自分では気が利いたことのつもりで、大声で言うタイプの人がいる。もちろん個々の発言については、僕だって多々そういうことはあると思えば恥じ入るしかないのだが、そもそもそういうことしか言わない、言えない人がけっこういるように思うのだ(だから「タイプ」と書いた)。

 そういう人のありがちな習性として、攻撃されるのが普通の人を、普通のやり方で攻撃するという行動がよく見られる。そしてそれを何か、言っている本人だけは、いかにも鋭いことを言っているつもりになっているらしいのだ。

 オノ・ヨーコはそういう攻撃対象の代表格と言っていい。ジョン・レノンはいいがオノ・ヨーコは嫌い、という言いまわしは、凡庸さの名札のようだ(「1年凡庸組」みたいな)。

 言うまでもないことだと思うけれど、僕はオノ・ヨーコを嫌うこと自体を問題にしているのではない。みんながオノ・ヨーコを好きになるべきだなどと言いたいわけではない。そんなバカげたことがあるものか。
 オノ・ヨーコの音楽を聴きこんで、そのパフォーマンスを体感して、否定的な批評を述べることは、当然ありうる。しかし僕が言いたいのは、単に聴いたか、観たかではない。
 「1年凡庸組」タイプの人たちは、たぶん自分が論じる対象にまったく巻き込まれてはいないのだ。つまり、何かについて(その「何か」は非常に多岐にわたることが多い、かれらは物知りなのだ)語っていながら、ほんとうは語ってなどいないのだ。すべては要するに「自分語り」にすぎない。

 僕は「自分」にはあまり興味がない。それよりも、「世界」について語りたい。かたちの上で自分について語ることはあっても、それはそのことが、「自分」の対極でありながら「自分」を含む「世界」という不可思議なものについて、何かを語ることとイコールである限りにおいてであることを、僕は望んでいる。

 僕の場合にはそれは実現できたためしはないのだけれど、オノ・ヨーコには「自分語り」はない。彼女は、たとえきわめてプライベートな事柄について語っているときでも、ほんとうは「世界」について、「世界」に向けて語っている。だからヨーコの歌は驚くほど明確に普遍的なのだ。
 もう何年も前にも「読書日記」に書いたことがあるが、僕はヨーコの「凧の歌」(Kite Song)という曲を聴くたびに震撼させられずにはいない。――いつどこにいても自分は凧の糸を握っていた。夢の中で糸を手放し、凧が飛んでいってしまったのではないかと思い、恐怖で飛び起きたこともある。レストランにいるときでも、友達のせわしなく動くくちびるを見つめながら、テーブルの下で糸を握りしめていた。けれどもそれから長い時間がたって、私はいつのまにか凧のことを忘れ、代わりに歩くことを覚えた。
 そんなある日、私は黄昏時の暗い空の雲間に何かきらりと光るものを見る。それは確かにあの凧だった。凧がどうやってそこに戻ってきたのかはわからない。そんなことはどうでもいいことだった。私がやったことは、両手でしっかりを銃をかまえ、たぶん私だけに見えるはるか上空の黒い点に狙いを定めて、それをぶっ放すことだった。そして黒い点は消え、それ以来私は二度と凧を見ていない。

 「凧の歌」は、象徴的表現というものが二次的なもの、つまり実物を直截に表現することを避けて、遠回しにもってまわって雰囲気をかもしだそうとするものなどではないということを教えてくれる。「凧」を幼年期の自我だとか、自分探しだとかとして解釈し、この詞全体にchildishな自己への決別といった意味づけ、というか言い換えをすることは可能だし、間違ってはいないだろう。しかしそうすることによって何が得られるのかは、僕にはわからない。

 かつて自分がその糸をいつも握りしめていた凧が、いつのまにか夕刻の虚空に浮かんでいる。それを見たら、即座に撃ち落とさねばならない。「自分」ではなく「世界」について語ること、世界に介入すること。それが一種の特権であることはもちろん知っている。オノ・ヨーコの場合は金持ちであることの(そうでなければ、ニューヨーク・タイムズに全面広告を出したりはできない)、僕の場合は「男」であることの。