中世哲学への招待

中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)

平凡社 2000-12
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 めちゃくちゃ面白かった。題名は『中世哲学』と大きく謳っているが、中身は「このもの性」または「個体性」の概念を切り開いた中世ヨーロッパの哲学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの議論の紹介にかぎられている。しかしここに「ヨーロッパ的思考」のはじまりがあるのだという著者の断定が、ぐいぐい迫力をもって迫ってくる。

 個物の個別性の起源をめぐって、トマス・アクィナスアリストテレス以来の思考を踏襲し、それを質料的なものだという。このとき、個物の本質(実体)が形相起源であることには何ら異論はない。これに対して、個物の個別性の起源が質料にあるということには微妙な問題がある。単なる物体とはちがって、「人間のような半分精神的存在となると、その個別性は精神的アイデンティティーともからんで、起源を質料的なもの、つまり身体的なもの、とは簡単に言えなくなるのではないか」(111ページ)。

 より正確には、二つの地平を区別して論じることが必要である。
?受容的可能性の実在性(質料)/この可能性にはたらきかけて何らかのかたちを実現する原因となる実在性(形相)
?個物の普遍的基盤となる実体性substantia/これに偶然的に結びついて個物の表面的違いを生み出す付帯性accidentia
 これをふまえて、個体性を考える。

<形相と質料>
ヨハネス・ドゥンスは、個別化の原理を、質料ではなく,形相の側にあると考えられた実在性(「形相性」formalitasという)に求めた。言い方を替えれば、現実態の側に置いた。つまり受容的可能性の側でなく、「これ」として事物を積極的に規定する構成要素を、個別化の原理として主張したのである」(113ページ)。「しいて言えば、ヨハネスは個物の個別性にきわめて強い意義をもたらした、ということが言える」(同)。

 つまり、トマスは個別性が質料に起源するとし、個物が「一つ一つのかたちである」ことに大した意義はないと考えた。ものがある時間ある場所にどれだけあるかが当時はまったく偶然的であると見られたように、そのなかの一個の事物も、偶然的な一個でしかなく、重要なのはそれがいったい「何であるか」、すなわちどのような種に属する個体かだ、と考えられたのである。これに対し、ヨハネス・ドゥンスは、個別性の起源は形相(現実態)にあるとした。かくして、それが「何であるか」よりも「一つ一つのかたちで在る」ことが、一層意義があるとみなされることになる。それは、一個一個が神の創造の対象となる、あるいは、神の愛の対象となる、という意義である。

「つまりヨハネスでは、人間知性はたしかに抽象によって普遍をとらえるのであるが、これは知性の最高の認識形態ではなく、個物を個別性のままに直観することが、実は最高の認識形態なのだ、という主張が出てきているのである。」(114ページ)

 ただしこれは単純な唯名論ではない。「ヨハネスも、普遍はやはり実在にしっかりとした根拠をもつ概念であることを主張する。たとえば「人間であること」は個人にとってやはり現実的な基盤である。ただその実在性は、個別性によって規定を受ける比較的に「弱いもの」にされたのである。すなわち個人にとって、人間であることよりも、「あなた」や「わたし」であることの方が、大きな意義をもつことになったのである。」(114ページ)

<付帯的相違と実体的相違>
「人間はむしろ「人間になる可能性」として生まれてきて、その後の経験を通じて、人間になる(人間として完成される)、という側面をもち、この点で物体とは異なるものである。」(115ページ)

ヨハネス以前の説明では、この個性の発現は付帯的なことがらであって、重要性は薄い、と見られていた。ヨハネスはこれに対して、本質の完全性を認めながら、個別性のもつ完全性を別の尺度で与えるのである。〔……〕付帯性はあくまでも二次的な完成を本質にもたらすのみであると理解されていたのである。これに対してヨハネスは、個別性は本質に対して付帯的であることを認めながら、この付帯性によって、色や形といったほかの付帯性にはないある特別な完全性が本質に与えられる、と言うのである。
 個別性だけが与えるその完全性とは、「無限な神性」を受け取る可能性である。」(116-117ページ)

<まとめ+補足>
「つまりヨハネスの個別化原理は、形相(現実態)の側に置かれることによって、特別の完全性を個別者にもたらす説明をもつことになったのである。ただし、その完全性は信仰によるものである。言い換えると、ヨハネスの個別化原理の主張は、通常の人間における個性を説明するものではない。」からそれなら質料起源の個別性で十分。一人一人の「かけがえのなさ」は説明可能。「なぜなら、〔……〕個別性をもった個物がいったん質料によってできれば、それが後に知識等の形相的なものによって偶然的に完成されていくと、説明できるからである。したがって、個別化原理を質料と見ても,実質的な個性はその上に、形相的なものによってつくられていく、と言える。つまり形相的に個性が成長するとしても、その土台を提供しているのは質料であると,説明できるのである。」(118ページ)

ヨハネスの説明がトマスと違うのは、人間一人一人のかけがえのなさを、神性との結びつきのなかに置くことになった点である。神性は、超越的完全性であったので、質料を基盤とした個体性に結びつけることには無理があった。なぜなら超越的完全性は、個別的な形相的属性であって、質料的な個別的属性ではないからである。ヨハネスは、個体性の基盤に形相性を置くことによって、神と個物の関係を、普遍的知識(質料からの抽象認識)を通じた間接的なものから、個別的で直接的なものと見る世界を切り開いたのである。」(119ページ)

ヨハネスの説明によって、個人のもつ個別性が、ある種の奇跡的可能性を開くものとして理解され、個人と神との直接的結びつきを認める神学が生まれたのである。」(119-120ページ)

 ヨハネスのこのような思考が、プロテスタント神学に影響を与え、キリスト教が個人の尊厳を保証するという思想を誕生させる原動力になったのである。

 ぼくがこの本を参照したのは、生殖医療技術、もっと絞れば代理出産との関連で「誰が親か」を考える際、代理出産推進派は遺伝的なつながりが親性の本質だという「遺伝主義」をとることが多く、日本の民法にみられる「妊娠出産主義」(産んだ女性が母親である)を批判するのだが、これに対して「生まれる子に形相を与える遺伝が、質料を与える妊娠出産よりも優位であることは自明ではない」という議論があることを知り(Stanford Encycropedia of Philosophyの"Parenthood and Procreation"の項)、もう少しきちんと考えてみたかったから。もちろん、もともとドゥンス・スコトゥスライプニッツの個体概念への興味はずっとあって、しかし彼ら自身の著作はなかなか歯が立たずに困っていたのである。
 次は同じ著者の『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』を読むつもり。

天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡

春秋社 2009-12-22
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