これって、そんなに傑作ですか? たしかに、かなりよくできた宇宙ホラーSFだとは思ったし、読んでいるあいだは(会話の耐えがたい陳腐さに我慢すれば、ホラーとしてのストーリー展開は)まあそれなりに楽しめたけど、「日本SFの達成」みたいな評価には「なんで????」というのが正直なところ。世界観の大枠になっている脈動
宇宙論が古くさいのはまあ良いとして、ビッグバンの失敗がなんたらで「憎悪」がどうのこうのってのは何の比喩だか全然わからんし、まあそれはそういう話だと受け入れたとしても、だからどうなのという気しかしなかった。「生命」だの「精神」だの「心」だのといった素朴な物象をマジで信仰していることが大前提の書きっぷりにもついていけないし、そのうち案の定
ユングがどうとか言い出すし。
チョムスキー言語学の
疑似科学的展開もいまいちオカルトっぽいし、「
フッサール・ポイント」という用語もちょっと恥ずかしい。いや、オカルトならオカルトで別にいいし、オカルトだからSFではないと決めつけるつもりもない。他者の精神に巣くう異物うんぬんといった話だって、たとえば
ティプトリーの『星ぼしの荒野から』に入っているやつなんかは感動的なSFだった。何だろう、登場人物があまりにフツーの(あんまり頭のよくなさそうな)現代人で、類型的すぐる「男と女」ばっかりだからかな?(なんつうか、有線放送っぽいていうか。) 時代が未来だろうが宇宙生命体が乱舞しようが想像を絶するテク
ノロジーが炸裂しようが、それらとともに変貌を遂げているべき登場人物たちが「われわれとは別の人間」あるいは「そもそも同じ人間なのか?状態」じゃないなら、読者はいったい何に驚愕すればよいのだろう、と思ってしまう(クラークとか
スタージョンとかだけの話ではありません。たとえば『
虐殺器官』はそのあたりをしっかりわかった上で、ヒトの利他性という進化的産物の「変わらなさ」にむしろ新たな発見的価値を与えることに成功し、他方『ハーモニー』はヒトの可塑性を突きつめた果ての
功利主義的――安藤馨的?――
ユートピア/
ディストピアをその両義性のままに構想してみせたことは記憶に新しい)。
飛浩隆の「比喩の比喩」がどうのこうのという解説も、よくわかりませんでした。読後、どうにも欲求不満感が残り、なんだか久しぶりにレムの『砂漠の惑星』が読みたくなった。