押見修造『悪の華 (9)』

惡の華(9) (少年マガジンコミックス)惡の華(9) (少年マガジンコミックス)
押見 修造

講談社 2013-08-09
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 八月の中旬、American Sociological Associationの年次大会に出るためニューヨークに滞在した際、キンドルで読んだ。この巻は切ない。高校生になった主人公が、好きになった女の子に告白する場面の誠実さはすばらしい。もうこのまま、こいつらを幸せにしてやってくれ、と心の中で何度も土下座した。中二の時にあれこれ騒ぎを起こしたと言ったって、子供のあやまちじゃないか。結果的には人を殺めたわけじゃなし、みんな許してやってくれ。

 とはいえ、「本を読む人」であるというだけでこれほどまでに疎外感に苛まれなければならない、ということが、僕には実感としてよくわからない。中学生の時、僕の友達は勉強はできないが滅茶苦茶オモシロイというタイプが多かった。かれらは本などほとんど読んではいなかったとは思うけど、僕がランボーの「永遠」(角川文庫の金子光晴訳)を暗記して諳んじてみせたら気に入って、ちょっとしたブームになった。星新一筒井康隆はみんな読んでいた。僕は友達(こっちは勉強のできるやつだっかが)に大江健三郎の凄さをアツく語った。本を読んで新たなネタを仕入れて教えてくれるようなやつは一目置かれていた。それはそうだろう、仲間内だけで情報の再生産を繰り返していたって退屈なだけだ。外を垣間見せてくれるやつが内輪でもヒーローになれる。その「外」はバイクやエロ本であることもあれば、文学や映画であることもある(もちろん中学生の僕は、それらすべてに激しく興味を抱いていた。)。
 『悪の華』が描く、澱んだ反知性主義に塗れた世界はどれほどの広がりをもっているのだろう。電車のなかで、高校生らしき女の子たちが「あの人、頭のいい人だからさ〜」「あぁ〜」という会話を、蔑むようなイントネーションで交わしているのを聞いたことがあるが、押見が描くようにそういうノリが主流なのだろうか。先日紹介した浅野さんの本を読めばそのあたりがわかるのかもしれない。ヤンキー社会とか、橋本徹の巧みな反知性主義とか、そいういう話に通じる現実は、どれだけ蔓延しているのだろう。

 それはともかく、作者の魅力的な女の子を造形する能力は異常だ。この巻で終わってくれと言う心の叫びとは裏腹に、主人公が次はどんな美少女と遭遇し、右往左往させられるのか、(としまえんの「ミステリー・ゾーン」の扉が次々と開かれていくように)何度でも見せてくれという欲望も隠しきれないことをここに書きとめておく。