ボブ・ディラン「アイ・シャル・ビー・リリースト」を訳してみた

 友人が貸してくれたザ・バンド『ラスト・ワルツ』の完全版DVD(マーティン・スコセッシの映画版に入っていない場面〔ただしモノクロ〕と音源〔すべてオーヴァーダブされていない当日の音そのまま〕を復活させたバージョン)を観て満腹したのだが(好き者にとっては映画版の100倍面白かったです)、最後にボーナス・トラックとしてついている「アイ・シャル・ビー・リリースト」スタジオ録音風景にかぶせられた字幕の和訳が、いくらなんでもそりゃ違うでしょというモノだったので、拙訳を挙げておくことにした。

 これに限らず、このちょっとググってみると、DVDと同様の意味不明の訳を出している人がいっぱいいて頭を抱える。以下の拙訳が完璧だとか最良だとかいうつもりは毛頭ないが、いくらなんでも「刑務所に入れられた囚人の視点から歌われた歌」という基本中の基本を押さえていなければ話にならないでしょう。もちろんディラン自身がある程度その辺をぼかしたからこそ抽象的な歌詞になり、そのぶん普遍性が増したわけだが、それでも普通に読めばモチーフはわかるはずだし、ちょっと調べれば裏付けも取れる。実際、友部正人さんは自分で訳してカバーしているが、ほぼ直訳でちゃんと囚人の叫びという内容を伝え、しかも日本語の歌として成立している。さすがというほかないが、そういう先例があるにもかかわらず、「自分を犯罪者にしたやつら」とでもすべきところを「僕がいままで出会った人たち」みたいに、ほぼ真逆の意味にして意味不明の「ちょっといい話」風に仕立て上げてしまうのはけしからん。

 というわけで、以下が拙訳。そのあとに若干の解説を記し、最後に原文を掲げておく。

 

*******************************

 

俺は解放される

どんなことも償われるんだとさ
でもすぐにそうなるわけじゃない
だから俺は 俺をここにぶち込んだやつら
みんなの顔を覚えておこう
俺の光が見えてきた
西から東へと ひろがってゆく
いつかきっと、今すぐにでも
俺は解放されるんだ


誰にも保護が必要なんだとさ
誰だって罪を犯すのだからと
でも誓って言うが 俺の本当の姿が見えるのは
この壁よりもずっと高いところ

俺の光が見えてきた
西から東へと ひろがってゆく
いつかきっと、今すぐにでも
俺は解放されるんだ


この孤独な群れのなかで 俺の隣に立ち
自分は誓って無実だと言う男
俺は罠にはめられたんだと 声をからして叫ぶ
その声が 一日中聞こえてくる
俺の光が見えてきた
西から東へと ひろがってゆく
いつかきっと、今すぐにでも
俺は解放されるんだ

 

*******************************

 いくつかのポイントを解説していこう。

1)まずは、"I see my light come shining / From the west unto the east"という印象的なリフレイン。Michael Gray, Song and Dance Man III, 2000, p. 200によると、この表現自体はわりとありがちなもので、『新約聖書』マタイ伝24:27で『旧約』の「ダニエル書」をイエスが引用して言う“For as the lightning cometh out of the east, and shineth even unto the west; so shall also the coming of the Son of man be.”(「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」『新共同訳』)という表現をふまえているという。ただし、常套句だからダメというわけではなく、ディランはこの借用をうまく印象的に使っているのだという。もっとも、借用といっても、マタイでは「東から西へ」だがディランは「西から東へ」と反転させている。これにはどういう意味があるのだろうか?

 なお興味深いのは、マタイ伝の文章は、「光」を讃えるものではなかったということだ。そこでイエス・キリストは、「憎むべき破壊者」がもたらす「苦難」の日々において、偽メシアや偽預言者たちの言葉に惑わされてはならないと説教しており、その文脈で語られる「稲妻が東から西へひらめき渡る」という荘厳なシーンは、人はついそれに引き寄せられて見に行ってしまうものだという注意喚起のために持ち出されており、次の「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」という陰惨なフレーズと並んで、偽預言者の言葉に惑わされやすい人間の本性的な弱さのことを指しているのである。

 ディランはその崇高美学的な稲妻のイメージを借用して、〈解放=釈放〉の希望のシンボルに仕立て上げた。「自由の鐘」にも稲妻が登場することを思い起こすと、ディランにとっての稲妻とは、自由あるいは解放のイメージそのものであるのかもしれない。むしろ逆に、ディランは自由あるいは解放を稲妻のようなイメージで捉えていると言うべきか。

2)「俺の本当の姿が見えるのは/この壁よりもずっと高いところ」(I see my reflection / Some place so high above this wall)と訳しておいた箇所は、同じGrayの本(p. 28)によると、「ロイヤル運河」(The Royal Canal)という歌にインスパイアされたものだろうという。この歌の中に、「カモメが壁の上を舞っている」というフレーズが出てくるのである。

 「ロイヤル運河」は別名(というか、こっちが元歌)「古いトライアングル」(The Auld Triangle)という歌で、劇作家ブレンダン・ビーハン(Brendan Behan)の最初の作品「死刑囚」(The Quare Fellow、1964年初演)で繰り返し歌われた。それがいつのまにか「ロイヤル運河」というタイトルで、フォークシンガーたちに歌われるようになり、ディランがニューヨークに出てきた1961年の時点ではすでに有名な曲になっていたようだ。おそらくディランはこの歌を、仲の良かったフォーク・グループクランシー・ブラザーズ(The Clancy Brothers)のリアム・クランシー(Liam Clancy)から教わったのだろう(リアムの歌はYoutubeで聴ける。素敵な歌声だ)。

 原曲の「古いトライアングル」の歌詞はこのサイトに全文掲載されている。ダブリンのロイヤル運河沿いにあるマウントジョイ刑務所に収監されている囚人の鬱々たる日々についての歌だ。ブレンダン・ビーハンはかつてIRAの闘士で、爆弾事件を起こして数年間(1942年から1946年まで)投獄されていたことがあり、その体験を歌にしたのである。有名なロック批評家のグリール・マーカス(Greil Murcus)はこの歌について、「自由への希望(hope for freedom)を欠いた『アイ・シャル・ビー・リリースト』だ」と言っている(Greil Murcus, The Invisible Republic,  1997, pp. 256-257)。逆に言えば、ディランはこの歌を土台として、そこに「自由への希望」をつけ加えたということになる。

 余談だが、この歌で面白いのは、語り手が隣接する女子刑務所のことを思い浮かべ、その女たちに混じって暮らせたら……みたいな妄想を書きとめているところ。やたらと切実な一節である(さらについでに言えば、そこに収監されている女囚の数は、歌い手によって「70人」だったり「75人」だったりする)。

3)実はいちばん訳しにくいのは、タイトルでもあり各連の最終行でもある"I shall be released"の部分。昔のレコードについていた対訳では「われ解放されるべし」と訳してあったような気がするが、悪くはないと思うがちょっと違う。もちろん、「解放(釈放)されたい」という単なる意志や願望でもない。ここでの"shall"は、一人称では「成就確実性」を、すなわち「ある命題内容が、主語の意志とは無関係に、いわば運命的に必ず実現するという意味」(安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社、2005、pp. 304-305)を表すものと解釈するのが、テーマや文脈から妥当である。となると、規範性を含意する「べし」はあまりよろしくない。そうなるのが正しいが、そうならないかもしれない、というのでは弱いのだ。ここは、自分が解放されるのは当然なのだ、それが天の定めなのだ、という強い断定でなければならない。

 4)「西から東へと」に続く「ひろがってゆく」は、友部正人訳に従った。友部さんのカバーは1991年のアルバム『ライオンのいる風景』に入っている。ベスト盤『ミディの時代』でも聴ける。名曲・名訳・名演なので、ぜひ聴いてほしい。

 

 ……といったところです。間違いや追加情報などをご教示いただければ幸いです。

 最後に原詞を掲げておきます。

 

I Shall Be Released    by Bob Dylan

They say ev’rything can be replaced
Yet ev’ry distance is not near
So I remember ev’ry face
Of ev’ry man who put me here
I see my light come shining
From the west unto the east
Any day now, any day now
I shall be released

They say ev’ry man needs protection
They say ev’ry man must fall
Yet I swear I see my reflection
Some place so high above this wall
I see my light come shining
From the west unto the east
Any day now, any day now
I shall be released

Standing next to me in this lonely crowd
Is a man who swears he’s not to blame
All day long I hear him shout so loud
Crying out that he was framed
I see my light come shining
From the west unto the east
Any day now, any day now
I shall be released

  

デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」を和訳してみた

 中学生から高校生の頃にかけて、気に入った詩や歌詞を紙に書き写して透明な下敷き(今のクリアファイルみたいなもの)に挟んでいた。金子光晴訳のランボー「永遠」とか、ボブ・ディランの「激しい雨が降る」の原文とかだ。中三のときだったか、「永遠」の冒頭の一行、「とうとう見つかったよ」を僕が呟くと、O.Tが気取って「何がさ?」と応じ、僕が「永遠」と応え、一緒に爆笑するという、謎な遊びを自習時間中にやっていた(今でも不思議なのは、僕が今生で出逢った人間の中で一、二を争うキレッキレの面白いことを言うやつだったO.T君が、結局、からっきし勉強ができなかったことだ。今も時々、知性って何だろうと考えるときには、O.Tのことを思い出さずにはいられない)。
 そんな歌詞の中の一つがデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ(英雄夢物語)」で、ライヴアルバム『ステージ』で初めて聴いたその曲に僕はずっと痺れっぱなしだった。少し遅れて、たぶん渋谷陽一のラジオで聴いた「スターマン」とともに、僕の生涯の宝物だ。今日は先日亡くなったボウイを追悼するために、""Heroes""の試訳と若干のコメントを書きとめておきたい。これまで、ときどきこの曲の数種の和訳を書物やネットで見かけてきたが、今ひとつ納得できるものがなかったので、拙訳を掲げておくことも何かの(誰かの)役に立つかもしれないと思う。とはいえ万全の自信があるわけでは全然ない。高校生のときに下敷きに挟んでいた拙訳からどれくらい進歩したかも怪しいものだが、誤りを指摘し、よりよい訳文を提示してくれる人が出てくるかもしれないことに期待しよう。
 なお、歌詞は1977年のスタジオアルバム版に拠る。邦盤の歌詞カードと自分なりの聞き取りによって原文を一応確定した。『ステージ』をはじめとして、さまざまなライヴ・ヴァージョンでボウイは少しずつ歌詞を変えて歌っているが、全体の意味が変わってしまうほどの変更はないと思う。シングル・ヴァージョンでは「君が泳げたらいいのに」というところから始まっていて、これはこれで企みを感じるが、僕としてはやはり違和感をぬぐえない。
 なお、原題の「"Heroes"」は、引用符を含めてタイトルになっている。ボウイはこの点について「皮肉」のニュアンスを込めたとインタビューで語っている。それも含めて、発表当時の邦題「英雄夢物語」が僕はけっこう好きだ。
 原文をまず掲げ、各連ごとに対応する和訳をつける。

デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ(英雄夢物語)」(""Heroes"")


I, I will be king
And you, you will be queen
Though nothing will drive them away
We can beat them, just for one day
We can be Heroes, just for one day

僕は王になる
君は女王になる
やつらを追い払う者はいないけれど
僕らには打ち倒せる、一日だけなら
僕らは英雄になれる、一日だけなら


And you, you can be mean
And I, I'll drink all the time
'Cause we're lovers, and that is a fact
Yes we're lovers, and that is that

君はときどき困ったやつになり
僕はいつも飲んだくれてばかり
だって僕らは恋人同士 そういうこと
僕らは恋人同士 そういうわけさ


Though nothing, nothing will keep us together
We could steal time, just for one day
We can be Heroes, for ever and ever
What d'you say?

何もかもが僕らを引き離そうとしても
時間を手にすることはできる、一日だけなら
僕らは英雄になれる、いつまでも永遠に
君はどう思う?


I, I wish you could swim
Like the dolphins, like dolphins can swim
Though nothing, nothing will keep us together
We can beat them, for ever and ever
Oh we can be Heroes, just for one day

君が泳げたらいいのに
イルカのように イルカが泳ぐように
何もかもが僕らを引き離そうとしても
僕らはやつらを打ち倒せる、いつまでも永遠に
僕らは英雄になれる、一日だけなら


I, I will be king
And you, you will be queen
Though nothing will drive them away
We can be Heroes, just for one day
We can be us, just for one day

僕は王になる
そして君は女王になる
やつらを追い払うことはできなくても
僕らは英雄になれる、一日だけなら
僕らは一緒でいられる、一日だけなら


I, I can remember (I remember)
Standing, by the wall (by the wall)
And the guns shot above our heads (over our heads)
And we kissed, as though nothing could fall (nothing could fall)
And the shame was on the other side
Oh we can beat them, for ever and ever
Then we could be Heroes, just for one day

覚えているよ
あの壁の傍らに立って
頭上でいくつもの銃声が轟くなか
僕らはキスを交わした 何事もないかのように
恥じるべきなのはやつらの方だった
僕らは打ち倒せる、いつまでも永遠に
そうすれば僕らは英雄になるだろう、たった一日だけなら


We can be Heroes
We can be Heroes
We can be Heroes
Just for one day
We can be Heroes

僕らは英雄になれる
僕らは英雄になれる
僕らは英雄になれる
一日だけなら
僕らは英雄になれる


We're nothing, and nothing will help us
Maybe we're lying, then you better not stay
But we could be safer, just for one day

Oh-oh-oh-ohh, oh-oh-oh-ohh,
just for one day

とるにたらない僕らを救けてくれるものなどありはしない
たぶん何もかもが嘘だから 君はもう行った方がいい
でも僕らは切り抜けられる、一日だけなら
たった一日だけなら

 いくつかのコメントを。

1.ボウイのファンには有名な話だが、この曲が発表されてからしばらくの間、ボウイは「ベルリンのスタジオから見えた、壁の前で逢い引きする見知らぬ男女」の光景からインスピレーションを受けたと語っていた。しかしその後のインタビューでは、それは通りすがりの男女ではなく、アルバム『ヒーローズ』のプロデューサーであった盟友トニー・ヴィスコンティとある女性のことだったと打ち明けている。当時、ヴィスコンティはまだ前の妻と結婚していたので、ボウイはその事実を大っぴらに語ることを避けたのだった。ピーター&レニ・ギルマン『デヴィッド・ボウイ:神話の裏側』(野間けい子訳、1987年[1986]、CBSソニー出版)の442ページ以下によれば、ハンザ・スタジオからかろうじて見えるベルリンの壁の前で、トニー・ヴィスコンティが地元のシンガーであるアントニア・マースと腕を組んで歩いているのが見えたことがそのモチーフだった。そしてヴィスコンティ本人は、ボウイがそう言わなくても、当時から「あれは自分たちのことだ」とわかっていたのだという。

2.だがそれだけではない。同書によると、ベルリン表現主義に属する画家オットー・ミュラーの「庭壁の間で愛し合う二人」(1916年作)という題の、ブリュッケ美術館にある絵からもボウイは深甚なインスピレーションを得ていた。ボウイやイーノは、週のうち何日かはドラッグにはまっていたが、しかしクリーンな日は精力的に美術館などに出かけていたのだという。ミュラーの作品は、ブリュッケ美術館を紹介したサイトで観ることができる。なるほど、という感じの絵だ。

3.とりわけ印象的な第6連、ボウイが悲痛なシャウトで歌う箇所の、「恥ずべきなのはやつらの方だった」と訳した部分には多種多様な解釈がある。いちばん標準的なのは、"other side"を当時の東ドイツの国家体制とみるもので、たとえばPatrick MajorはBehind the Berlin Wall: East Germany and the Frontiers of Power (2011)という本でそのように解釈している。僕も同様の解釈に従った。

4.この曲を貫く、恋人同士が二人して王と女王になる、ただし一日だけ……というあまりにも強烈なモチーフは、アルチュール・ランボーの「イリュミナシオン」の中でもとりわけ印象的な「王座」(Royote)−−「王権」とか「王様」とか、いろいろな和訳がある−−の借用であろう。この詩も中学生の僕を夢中にさせたものの一つだった。この点については説明するまでもない、とりあえず拙訳を掲げておくので、見比べてみてほしい。

ある日のこと、とても温和な人々が住むところで、見目麗しい男女が街の広場に向かって叫んでいた。《諸君、私はこのひとを女王にしたい!》《私は女王になりたい!》女は笑い、震えていた。男は啓示について、終わった試練について人々に語った。二人は恍惚としながら身を寄せ合っていた。
実際、彼らはずっと王だった、深紅の幔幕が家々に掲げられた午前と、棕櫚の庭の方へと進んでいった午後のあいだは。(加藤秀一試訳)

吉川浩満『理不尽な進化――遺伝子と運のあいだ』

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 読んでためになるだけでなく、何というか、心が洗われるような本だった。

 本書のはじめの方で明かされるモチーフは、専門的な科学としての進化論の基本的な考え方を過不足く解説しつつ、それと大衆的な進化論のイメージあるいは「世界像」としての進化論との懸隔を明らかにしながら、(後者を前者に近づけようという科学的啓蒙とは別の関心から)その「懸隔」そのものの私たちにとっての意味を問う、といったところ。ここではひとまず専門家と素人との懸隔が問題であるように見える。しかし叙述が進むにつれて、それはドーキンスとグールドとの懸隔であり、また実はグールドの内部にあってその人自身を苦しめたはずの葛藤であり……と変奏され、さらにはそれが科学理論と世界像、自然と歴史、説明と理解、方法と真理、進化と人間との間の裂け目、すなわちおよそ私たちが何かを考えるときに不可避的に直面せざるを得ないような対立関係であることが明るみに出されてゆく。そして進化論こそが、そのような緊張の場に位置づけられるべき知であることが説得的に論じられる。

 このような壮大だがきっちりと整ったストーリーを提示する構想力と、それを具現化する丁寧な筆致に何より感嘆させられた。進化論そのものの解説は、もしかしたら全く予備知識のない人にはちょっと着いて行きにくいかもしれないが、入門書から専門書まで豊富な参考文献が挙げられているし、そもそも「なぜ着いて行きにくいのか」ということ自体が重要なテーマとして論じられているので、じっくり読めば何とかなるだろう。個別の(とはいってもやたらと射程が広いのだが)論点では、「適者生存」概念のトートロジー性をどうとらえるかについて、僕が今まで読んだ中で最もすっきり腑に落ちる説明をしてくれていると思う。大衆的な世界像としての進化論についての分析では、ゲームのルール自体が勝手に変えられてしまうという「進化の理不尽さ」が回避されるさまが指摘される。この点は僕自身の関心とも密接に関わるので特に興味深かった。僕は数年前に書いた論文で、進化論を背景とした遺伝子決定論/遺伝子還元主義について「生物学的メタファーの効果」という観点から分析し、T・ホンデリックの議論を参考に、決定論が「自分が自然と一体化しているという安心感」につながるのではないかと考察したのだが、このような「自然」の観念は、99.9%の種が絶滅するような「理不尽な進化」としてまとめられる自然像とは非常に異なるものだ。つまり遺伝子決定論を少なからぬ人々にとって魅力的なものにしている要素は、科学としての進化論が解き明かす進化/自然の理不尽さを回避する穏やかな自然の観念なのだろう。このようにつなげると、吉川氏による「進化観」の分析は、より広範な「自然観」の分析へと展開できるような気がした。

 他にも学んだことはたくさんあるが、ひとまず以上が「ためになった」面。もう一つの「心が洗われる」面としては(別に両者は別々ではないけど)、まず本書の筆致というか文体というかの絶妙の速度が心地よい。ある意味で冗長に感じられるところも多いのだが、たぶんそれは必要なクドさなんだろうなということはわかる。この点は、一般向けの書籍を書くのに四苦八苦している最中の自分にとっては一筋の光明をもたらしてくれた。それから、参考文献=ブックガイドに見られる著者の教養と心の広さ。端々からネット時代の書籍であることを感じさせられるにもかかわらず、ネット的な罵倒語彙めいたものが一切見られないこと。つまり低劣な自己顕示欲の垂れ流しとか欲求不満の吐き出しとかがないこと、と書くとなんだか基準が低すぎるようだが、自戒を込めて言えば、案外これが容易くはないのだ。
そして僕にとって何より「ためになり」同時に「心が洗われた」のは、著者自身にとっても予想外だったというほどの紙幅を割かれたグールド論。バーリントルストイ論「狐とハリネズミ」を媒介に、グールドが科学と人間的なもの=歴史との(あるいは、著者は使っていない言葉だが、繊細な精神と幾何学的精神との)間で悶え苦しんでいたとする分析は感動的であった。僕の個人史の話になるが、小中学生の頃に読んだ子供向け理系の本や古典SFで漠然と「進化」に興味はあったものの、僕がもう少し本格的にその面白さを教えてもらったのは何と言っても学生時代に触れたスティーヴン・J・グールドの諸著作からで、後に進化論理解はドーキンス長谷川眞理子(やShorebird氏のブログ)によって強制的にヴァージョンアップさせられたものの、やっぱり「好きな本」という意味では今もグールドのエッセイ群に憧れのような気持ちを抱き、学問への最良の誘いとして学生たちにも薦めている。だからグールドがウィリアムズ〜ハミルトン以降の行動生態学を頑なに誤解し続けているようにしか思えないことにはずっと戸惑っていたし、しかし他方、ドーキンスの訳者でもある某進化生物学者(最近はむしろナチュラリストというか環境保護活動家)が講演で「直観が素晴しいのはウィルソン、何にもわかってないのはグールド」と発言するのを聞いて、何だかなあと割り切れない気持ちになったりもしていた。そんなワタクシにとって、本書の迫真のグールド理解には、視界を覆っていたPM2.5が一気に吹き飛ばされるような感じがした。と同時に、やっぱり読むならここまでしっかり読まないといかんのよね、という反省もしきり。

 このあいだ、来年度の新入生向けにお勧めの本というアンケートを書いたのだが、もっと早く本書を読んでいればそこに入れられたのに。文系とか理系とか言う前に、まず本書を読んで、そこに展望された広大な領域から、いちばん自分の琴線に触れた箇所を掘り下げて勉強していけば、少なくとも無駄すぎる遠回りをせずに、充実した学生生活を送れるのではないだろうか。

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 どうもありがとうございました。

 数年前に『現代思想』別冊の上野千鶴子特集号に書いたエッセイの草稿をサルベージしておく。雑誌に載ったバージョンと大筋は変わらないが、原稿用紙6、7枚分長い。

「わたし」への持続する意志について
加藤秀一
 1
 一九八三年に大学に入った人間が、フェミニズムと名づけられた思想運動について、したがってそれが対峙した性差別の現状について学ぼうと欲したとき、上野千鶴子から始めることはほとんど自然の摂理だった。僕自身について言えば、フェミニズムに深く魅了されるにいたる細々とした個人的前史もなくはなかったけれども、それが知的な関心として一気に上昇気流に乗せられたような感じがしたのは、紛れもなく上野千鶴子という一陣の風がもたらした開放感の中でのことだった。当時、仲間と一緒にJ・S・ミルやA・ベーベルの古典的な婦人解放論をお勉強し、あるいはイヴァン・イリイチの「ヴァナキュラー・ジェンダー」論を通して「ジェンダー」という英単語と出会った(!)ばかりだった僕に、こんなふうに現代的にフェミニズムすることができるのだという鮮やかなビジョンを与えてくれたのが、一九八二年の『セクシー・ギャルの大研究』以降の上野による矢継ぎ早の発言だったのだ。とりわけエコロジカル・フェミニズムを掲げる故・青木やよひ(僕は彼女からも多くを学んだ)との論争や、何よりイリイチ批判の論文には圧倒的な印象を受け、説得された。それを一書のタイトルとした『女は世界を救えるか』(一九八六年)こそ、僕が最も興奮しながら読んだ上野千鶴子の著作かもしれない。イリイチ性役割秩序と「反成長」のイデオロギーとを巧みに結びつけることで描いてみせた性差別なき共同体像のまやかしをものすごいテンションでぶち壊してゆくこの論文から、僕は本物の怒りがシャープな知性と文句なしに両立することを学んだ。いやむしろ、真に透徹した認識は本物の怒りによって支えられずにはいないということをさえ、教えられたように思う。
 けれども、考えてみると不思議な感じもするのだが、そのときもそれ以後も、僕は上野千鶴子から主張内容そのものや理論枠組みを受け継いだという気はまったくしないのだ。現在にいたるまで、上野の言うところのマルクス主義フェミニズムをよく理解できたと思ったことはないし、近年の「構築主義」についても納得できないことだらけだ。それにもかかわらず、自分が上野千鶴子から受けた影響は疑いなく深甚なものだと感じる。理論的立場を受け継いだわけでもなく、教室での師弟関係をもったこともほとんどないにもかかわらず、上野千鶴子は紛れもなく僕の師であったし、いまもそうだ。なぜだろう。この点に関連して、ある哲学者がこんなことを言っていたのを思い出した。「われわれの師とは、われわれが成人にたっしたときに、ラディカルな新しさでわれわれを驚かせる人であり、(……)われわれの現代性に合った、言いかえればわれわれが直面する難問や多方面に広がる情熱に合った思考方法を発見できる人である」(ジル・ドゥルーズ「彼は私の師だった」『無人島 1953-1968』河出書房新社、一六一頁)。たしかに僕(たぶん、僕たち)は、あらゆる場所に先回りしている上野千鶴子によってしばしば驚かされ、彼女から学び、また反発することを通じて、自分自身の「直面する難問や多方面に広がる情熱」の在りかを少しずつ確かなものにしてきたのだろう。

 2
 とはいえ、誤解のないように言えば、上野の「ラディカルな新しさ」とは、必ずしも耳目を驚かすごとき主張をするところにあるのではない。むしろ上野が、しばしば思いつきの新説を唱えた結果、みっともない失敗も犯してきたことは周知の事実だろう(同性愛を単純なナルシシズムと同一視したり、自閉症の医学をよく調べずに生育環境のせいにしたり。ただしいずれの場合にも後から自分の非を認め、修正や謝罪をしていることには敬意を抱く)。それに対して、落ち着いて考えてみればもっともであるはずなのに、なぜかその裏を張る言論の方がより鋭い発想であるかのように持て囃されている、といった種類の主張を正拳の構えから繰り出すときの上野千鶴子は、この上なく爽やかに、周囲の澱んだ空気――フインキ?――を弾き飛ばす。上野が、女性原理が近代文明の行き詰まりを打開する云々と騒ぎ立てる連中を「男が救えなかった世界を、女だけが救えるはずがない」と突き放し、むやみに性差を強調する極大論者(マキシマイザー)に対しては、性差の否定というありがちな罠に陥ることなく、「性差より人種差より世代差より何より、個人差がいちばん大きい」とする性差極小論者(ミニマイザー)の立場を投げ返すとき、僕にはそれらは全き肯定的な意味における〈正論〉であると思えた。上野自身、時に「正気」という微妙な言葉を使って、ほぼ同様のことを言っていたと思う。穿った見方を弄ぶより、埃にまみれ干涸らびかけた〈正論〉に新たな生命力を与え、対話の空間に再び解き放つ類い稀な才能においてこそ、上野千鶴子という論客は記憶されるべきではないか。
 そして僕には、一九九〇年代の終わり頃、上野が従軍慰安婦および連合赤軍という重い主題をめぐって一見あまりにも無防備に口にした「わたし」という言葉もまた、そのような〈正論〉のひとつであった――そうであるに過ぎなかった――ように思える。それが、恐ろしいほどの反発を呼び、自民族中心主義者という非難をさえ喚び起こしたこと、その意味について、いくらかのことを考えてみたい。

 3
慰安婦」とは、「一九三〇年代から四五年までアジアで戦った日本軍の将兵の性的欲望を満たすために設けられた『慰安所』で日々性交を強いられた女性」たちを指す。「慰安所」は広範な地域につくられた制度的なものであり、その犠牲者は、日本、中国、朝鮮、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ等の国々にわたって、数万人から二〇万人に及ぶと言われている(大沼保昭「はじめに」、大沼・岸編『慰安婦問題という問い――東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、二〇〇七年)。その事実が日本で広く認知され、社会問題として浮上したのは、一九九一年に韓国人元「慰安婦」の金学順さんが名乗り出て以後のことである。その後数年のあいだ、日本のマスメディアは「慰安婦」問題をさまざまに報道し(そしてほどなく忘れ去り)、日本政府は対応に右往左往した。
福岡愛子の聞き取りによれば、上野千鶴子は二〇〇一年のドイツ滞在中に元「慰安婦」の証言について知り、強烈な衝撃を受けたという。ただし興味深いことに、上野が接したドイツでの第一報は、金学順さんの名乗りそのものではなく、その後の日本政府を相手取った賠償請求についての記事だった。政府レベルではすでに解決済みとされていた問題をめぐって、ある国の個人が他国政府を直接告発するという行動の画期的な意義に注目した上野は、そこから「『慰安婦』たちの闘いを国家による代弁を拒否する『わたし』の闘いとして意味づけ」てゆく(「『慰安婦』問題の意味づけをとおしてみる上野千鶴子の「記憶」問題」、千田有紀編『上野千鶴子に挑む』勁草書房、二〇一一年、二七一頁)。そして一九九五年に北京で開かれた第四回世界女性会議で、在日韓国人女性の金富子らと「慰安婦」問題をめぐるワークショップを組織した上野は、「慰安婦」問題が日韓両国の間で国益の取引の道具として利用されているのではないかという危惧から、日韓両国のフェミニズムは国境を越えるべきだと発言し、会場の韓国系アメリカ人女性から「欧米フェミニズムの自民族中心主義と同じではないか」と批判されることになる。その痛烈な批判を「日本人フェミニストフェミニズムの越境を侵略された女たちに求めるのは日本および日本人の加害性を無化してしまうのではないか」という問いとして受け止めた上野は、それを「フェミニズムは国家を超えられるか」というより普遍的な問いに変換した上で、肯定的な答えを模索してゆく。そして、その後も各方面から続々と突きつけられた同様の批判に向き合いながらも譲らず、みずからの立場を次のように定式化するにいたる。

「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である(『ナショナリズムジェンダー青土社、一九九八年、一九七頁)。

これがピンとこないなら、上野がどこかで書いていたもっと生々しいエピソードをそれに貼り合わせてみるとよいだろう。ある高校で、日本の朝鮮侵略について語っていた男性教師がヒートアップし、日本人生徒たちに対して、クラスの在日朝鮮人生徒の名を挙げて「全員、○○さんに謝れ」と絶叫した、というエピソードである。これに対して、そんなふうに国家を背負うことの気色悪さを批判する上野の「正気」を、僕は心から支持する。
 他者との関係から与えられる諸カテゴリーのどれからも逃れることはできないが、しかしそのどれにも還元されえない「わたし」――それはかつてボーヴォワールを読み、サルトルの「他者が完全にエイリアンであるような極限的な個人の思想」を経て、メルロ=ポンティの「共感性・相互性の思想」にたどりついたという(隠れ?)実存主義者・上野千鶴子の面目躍如たる〈正論〉であろう(「森崎和江との対談「見果てぬ夢――対幻想をめぐって」『ニュー・フェミニズム・レビュー 第1号』一九九〇年、三三―三四頁)。注意してほしいのだが、ここで言われる「共感性・相互性」は、「わたし」を「社会的存在」に解消する言葉ではない。『知覚の現象学』でメルロ=ポンティは次のようにも書いたのだった。

私自身にとって私は〈焼きもち焼き〉でも〈詮索好き〉でも〈せむし〉でも〈官吏〉でもない。不具者や病人が己に耐えうることはしばしば驚きに値するが、それは、彼らが彼ら自身にとっては不具でもなければ死に瀕しているわけでもないからなのだ。(……)われわれは、誰もが、その意識の中心に立ち還るなら、自分は与えられた諸規定を超えたものであると感じながら、その上でそれらを甘受しているのである(『知覚の現象学2』邦訳みすず書房、四九六頁。ただし訳文は変更した)。

ここでは〈焼きもち焼き〉等々の属性が否認されているのではない。人間はそのような本質に還元されえないということだ。おまえはカタワだ、くたばり損ないだと、いくら他人から貶められようとも、実存としての人間、全体性としての「わたし」は、そんなレッテル貼りを超えた存在者である。僕にはそれは、ほとんど自明であるように思える。
 しかしながら、この主張に対して福岡愛子は「あまりにナイーヴな『わたし』宣言」であるとし、「どのような関係性においてであれ、『わたし』はつねに他者との関係におかれる社会的存在として概念化されなければならない」のであって、女性会議の場において上野が何よりもまず日本人として名指された以上、それを引き受けるべきだといった趣旨の批判を向けている(福岡前掲論文二八〇頁)。だが、先の引用箇所を文字通りに読むならば、そこで上野は「わたし」はどの関係性からも逃れられないということを認めた上で、しかし同時に「わたし」は諸関係性(から与えられる諸属性)の「どれかひとつに還元されることもない」というジレンマを問題にしているのだから、そうしたジレンマを構成する二項のうちの一項をとるべきだとするのは、批判としては上滑りしているように思われる。それとも福岡は、「わたし」が特定の属性ないしカテゴリーに「還元」されるべきだと言うのだろうか。たぶんそうではないだろう。残念ながら、議論はそれ以上の鮮明な像を結ばずに切り上げられているが、もしもジレンマを止揚する展望を福岡が模索しているのだとすれば、その方向性は上野とそれほど異なっているわけではないだろう。
 福岡と同型の主張をより具体的に、明確に行なったのは大沼保昭――元「慰安婦」たちに償い金と総理大臣(当時は故・橋本龍太郎)からの謝罪の手紙を手渡す事業を官民合同で進めた「アジア女性基金」の主要な担い手であり、右派からはもちろん、左派からも日本政府の加害責任を糊塗するものだと激しい批判や脅迫を受けた――である。大沼は言う。日本人が韓国人と「個人対個人」としてつきあうことができるというのは嘘だ。「相手が自分をどう認識するかということは相手の認識枠組みによって決まるのであり、自分で勝手に変えられるものではない」。したがって、相手から「俺はお前を日本人としてみて、植民地支配をやった日本人の、その子孫だと思っているんだ」と言われたら、「こっちは犯罪行為の法的な集団責任は認めないよというぐらいの反論はできるかもしれないけど、その他の道義的な部分については、わたしは自分の立場としては反論すべきでないし、できないと思う。(……)他者の認識においてすでにわたしが日本という国家と一体化していることを引き受けることなんじゃないですか」。これに「そんなこといっても、一国民が政府を代表することはできません」と反論する上野に対し、大沼は「もちろんできませんよ。しかし、ここでの問題は、『一国民が政府を代表すること』ではない。また、アジア女性基金は『一国民』ではない」と切り返すのである(大沼前掲書一三八―一八九頁)。
この短いやりとりの中には、きわめてクリティカルな問題群が濃縮されている。他者がこの私をある特定のタイプのトークンとして認識しているとき、そのことに相応の理由を認めるならば、私はその視線を何らかの意味で「引き受ける」べきだという大枠には僕も(おそらく上野も)異論はない。だがそれは、どのような意味においてなのか。私が何者か(本質!)という定義権を丸ごと相手にゆだねなければならないのか。また、ここで興味深いのは、上野が大沼の用いた「国家と一体化している」という表現を、「政府を代表する」と言い換えていることである。その理由は何だろうか。いったい、「わたしが日本という国家と一体化していることを引き受けること」は、「政府を代表すること」と同じなのか、違うのか。もしかしたらここで上野もまた、文脈次第では「わたし」が「国家と一体化」することを引き受けざるを得ないということを認め、それでもなおその不愉快な暫定的結論に対する抵抗の試みとして、「国家」を「政府」に、「一体化」を「代表」に、それぞれずらしてみようとしたのではないか。こうした推測が的を射ているかどうかは、残念ながらわからない。右のやりとりの後、両者の対話が別のテーマに移行してしまうからだ。
 たぶん上野は、「わたしが日本という国家と一体化する」ということの意味について、さらに大沼を問い詰めてみるべきだったろう。そこに、さらに議論を深めうる契機が秘められていたかもしれない。この論点をいま敷衍することは(与えられた時間と紙幅と僕自身の能力という三つの限界ゆえに)できないが、少なくとも分析しておくべき三つの問題軸についてだけ走り書きしておく。第一はいま述べた通り、「国家と一体化」することと「政府を代表」することとの(あるとすれば)差異。第二に、ある具体的な事象をみるときにどの視点を相対的に優先させるべきか(ジェンダーか、国籍か、エスニシティか等々)という問題と、たとえば「国籍」の視点をとる主体は「国家と一体化」ないし「政府を代表」していることになるのかという問題との区別。これは少しわかりにくいかもしれない。そんな区別はできないのではなかろうか、なぜなら、ひとつめの問題に「国籍」と答えることを条件として、はじめてふたつめの問題が意味をなすのだから……。確かに二つの問題が絡み合っていることは事実だが、両者の差異がないことにはならない。それを理解するためには、ある事象をとらえるのにジェンダーの視点を優先することと、自分が女性一般を代表しているかのようにふるまうこととの距離を考えてみればよいだろう。同じように、ある事象をみるのにジェンダーよりも国籍やエスニシティの視点の方が相対的に重要だと主張することは、必ずしもみずから国家を代表することとイコールではないはずである(それがたしかに際どい差異ではあるとしても)。第三に、いわゆる戦後世代の戦争責任論/戦後責任論の文脈において問題とされる「戦争に関連する何らかの責任が戦後世代にもあるとすれば、過去の戦争そのものについての責任か、それとも戦後の、むしろ現在についての責任か」という対立軸がある。上野がこれに関連して「二重の犯罪の重さ」という言い方で論じている内容は重要である。次にその議論をみていくが、そのための準備として、まず僕自身の「慰安婦」問題との(ささやかな)関わりについて簡単に記しておきたい。

 4
僕が「慰安婦」という存在について知ったのは、ちょうど上野千鶴子を通してフェミニズムを知ったのとほぼ同じ時期、一九八四年前後のことだった。大学の二年か三年生の頃だったはずだ。どこそこのゼミ旅行は韓国へのキーセン観光だったらしいといった噂に胸やけのような気分を感じていた、そんな時代のことだ。きっかけは全く覚えていないのだが、千田夏光従軍慰安婦』(一九七三年)、金一勉(キムイルベン)『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七六年)を立て続けに読み、僕は深甚な衝撃を受けたのだった。これらの著作は今日、被害者女性たちに対してせいぜい男性目線の同情しか向けていないとして批判されているが、そしてその通りではあるのだが、少なくとも歴史的事実の一端を伝える価値ある仕事ではあったし、読者をして「慰安婦」制度への深甚な怒りを喚び起こすには十分な内容を持っていたと思う。正直に言えば、このとき「慰安婦」についてわずかであれ知ったという経験こそが、僕がフェミニズムに本当に深い関心を抱く決定的な契機だったのだ(このことの意味については、後でもう少し詳しく考察する)。
 だから僕は、一九九一年に元「慰安婦」が名乗り出たときには、少なくともそのような問題があるということだけは知っていて、ようやくこういう日がきたのかと思った。その後、大沼保昭が二〇〇四年度に主催した東大法学部のゼミナール「『慰安婦問題』を通して人間と歴史と社会を考える」には、外部聴講生として参加させていただいた。そこでは、元「慰安婦」の方のお話を直に聞くという貴重な経験を与えられ、また大沼の現実に対する関わり方の誠実さ(と、どこか余裕のある風情)に強い印象を受けた。ただ、欠席せざるをえないことが多く、先ほど触れた大沼と上野とのやりとりが行なわれた回にも出られなかったことは残念だった。
 このように「慰安婦」問題について自分なりに考え続け、それについて小さな文章を書いたりもしたけれども、ただし僕は、はじめてそれについて知った学生のときから、それを歴史上の特異な出来事としてみるよりもむしろ、戦時強姦の問題に、さらには平時における性暴力に、そして性差別全般に直接つながる問題として感受する傾向が強かった気がする。言い換えれば、それを国家間の侵略戦争や民族差別の軸よりも――もちろん、それを無視したことなどないが――第一義的にはジェンダーの軸において、すなわち男性の性欲と攻撃性の解剖と批判という問題意識から受け止めてきたのである。こうした感覚が、あくまで男の側からの脳天気なモンダイイシキに過ぎないとしても、少なくとも形式的には上野の態度に通底していることは明らかだろう。
 だがそのことよりもずっと重要な問題をはらんでいると思えるのは、これもまた学生のときから基本的に変わらない、次のような感じ方である。すなわち、もしも自分が戦場に置かれたら、と想像するとき、俺は強姦したり慰安婦を買ったりしないと言い切る自信は、僕にはないということだ。従軍経験の只中で、「趣味」の問題として強姦しないことをみずからに宣誓した小説家・富士正晴ほどの矜持を自分が戦場で持てるかどうか、僕は(情けなくも)疑わざるをえない(参照、彦坂諦『人はなぜ兵になるのか』罌粟書房、一九八四年)。だから強姦者たちを許せというのでは全くない。自分が罪を犯したならば、僕は自分自身に絶望するだろう。そして言い訳はしないだろう。性暴力加害者は、あくまでも断罪されるべきだ。そこには微塵の疑いもない。
だがそのことを何度でも強調した上でなお、次のことを書いておかねば嘘になる。それは、僕が性暴力の加害そのものよりも一層深く、いたたまれないような嫌悪に憑かれるのは、「慰安婦」に対する男たちの、また世間の多くの人びとの、その後の対応について考えるときだということだ。今日の性暴力論における二次的被害(セカンドレイプ)の問題である。強姦自体よりも、強姦を正当化し、責任転嫁すること。たとえば戦場での強姦を、本能だから仕方がないと言うこと。たとえば小児虐待者が被害者の子供に対して、こんな目にあうのはお前が悪いんだよと言うこと。そうしたふるまいが、そのおぞましさにおいて、強姦や虐待という行為そのものより少しでもマシだとは思わない。同じことは、セカンドレイプの加害者が、ファーストレイプの加害者とは別の人びとであっても変わらない。たとえば、日本陸軍に見捨てられ中国大陸に残留した人びとが日本への引き揚げのために移動中、ソ連兵に「慰安婦」として差し出された女性たちによって命を助けられながら、彼女たちに詫びるでも感謝するでもなく、蔑みを向けた庶民たち。想像を絶する苦しみを味わった人たちを、ただその被害経験がただセックスに関連しているというだけで、どうして汚れた者として扱い、口を封じ、社会の周縁に追いやることができるのか。語弊を知りつつ僕は、そこに性暴力行為自体を生み出す欲望よりもさらに低劣な精神のありさまを見出したくなってしまう。
 こうした感じ方自体は僕個人の感受性や思考法の癖のようなものに過ぎないかもしれない。けれども上野が、「従軍慰安婦」とは「過去の問題ではなく、現在の問題なのだ」、「わたしたちが現在進行形で加担している犯罪なのだ」と言い、それが「第一に戦時強姦という犯罪と、第二に戦後半世紀にわたるその罪の忘却」という「二重の犯罪」であること、そして「第二の犯罪については、被害者に被害の認知を拒むことによって、日常的・継続的に半世紀にわたって続けられてきた『現在の犯罪』だということ」を強調するとき(『ナショナリズムジェンダー』一〇〇―一〇一頁)、それを読む僕は自分の中に普遍性への通路を見出すことができる(さらに上野は、「現在保守派の人々によって、被害女性の告発が否認されていること」を「第三の犯罪」とも呼ぶが、これは「第二の犯罪」の下位分類であろう。それも含めて「わたしたち」の犯罪なのだと言いたい)。そして現実には、僕自身は「第一の犯罪」を罪を犯さずにすんだ(すんでいる)が、「第二の犯罪」を免れてはいない。ここに見出されるのは、誰か他人から指さされ告発されたから生じたのではない、「わたし」がいかなるカテゴリー化をも超え出る存在者であるからこそ引き受けうる「責任」である。

 5
 上野千鶴子が言う「わたし」の概念をさらによく理解するために、最後に連合赤軍をめぐる彼女の発言をみていこう。ただしその前に、この言葉すら知らないかもしれない読者のために――僕はこのエッセイの主な読者として、ふだん接している大学生たちを念頭に置いている――最低限の注釈をしておきたい。一九七二年、連合赤軍という、若者たちが集う左翼(共産主義武装団体において、何人かの男女が共産主義革命の理念に反するという名目で仲間から「総括」という名のリンチを受け、殺されていたことがあらわになり、首謀者たちが逮捕された。これが連合赤軍事件と呼ばれ、一九六〇年代末以来の若者たちによる社会革命の夢想が、見るも無惨に崩壊したことを象徴する事件だとされている。永田洋子はその連合赤軍の副代表であり、女性であること、また代表の森恒夫が獄中で自害したこともあって、現在に至るまで連合赤軍事件を象徴する存在として扱われている。
 ジェンダーの視点から連合赤軍を考えようとする者にとって必読の一書である大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍――サブカルチャー戦後民主主義』(文芸春秋、一九九六年)は、同時にそのままでほとんど上野千鶴子論でもあると言ってよい。そこに収められた一連の強引な飛躍の目立つ、しかし抗しがたい説得力にあふれた一連の連合赤軍論/永田洋子論のなかで、大塚は繰り返し上野千鶴子の議論に(肯定的にも否定的にも)論及している。上野による一九八〇年代消費社会論を主要な参照枠組みとしつつ、同時に上野を「消費を通じた自己実現」への憧れという消費社会的感性の(たんなる分析者ではなく)主導者であるとするその議論の構えは、すでに上野から「状況を分析する観察者の水準と、状況それ自体の水準」とを混同するなと批判されていたものだが(『ニュー・フェミニズム・レビュー第1号』一九九〇年、九九頁)、その数年後においてもなお、大塚は上野を八〇年代消費社会の鋭利な分析者である以上に、その主導者にして体現者としてとらえている。そして大塚によれば、その限りにおいて上野千鶴子が(糸井重里とも並んで)「総括死しなかった連合赤軍の人びとであったことは明らか」なのである(大塚前掲書三一頁)。
 どういうことか。大塚はまず、永田洋子が獄中で描いた「乙女チック」なイラストに、七〇年代少女まんがと八〇年代消費社会において確立された「かわいい」という心性に共通する要素を見出し、そこから、永田が(当時の週刊誌がミソジニー剥き出しでデフォルメしたのとは違って)同時代・同世代の多くの女性たちからかけ離れた怪物などではなかったこと、すなわち一方では自立した女性になることを願いながら、他方では男性および男性優位の世間からの承認なしでは自己肯定できないという、現在においてもありふれた葛藤を抱えるひとりの若い女性に過ぎなかったことを剔抉してゆく。「総括」された女性たちだけでなく、殺す側にとどまり生き残った永田洋子も、仲間の男たちがあからさまに示す「男性支配的な価値」(強姦や中絶を笑いのネタにして痛まない、相も変わらぬ男たち!)に対して深い「生理的な違和」を抱いていたことには変わりない。だが彼女らは(後の上野千鶴子のようには)それをうまく言語化することができず、結局は男どもの生硬な「革命思想」に翻弄されることしかできなかった。だから、もしも彼女たちが運良く生き延びていたなら、やがて八〇年代消費社会の一員となり、雰囲気としての〈フェミニズムのようなもの〉が解放した「消費による自己実現」の担い手となっていただろうと言うのである。
ここでは連合赤軍の女性たちが消費社会の門前で挫折したことが鋭く分析されている。だからといって、理路を逆転させ、上野や糸井といった消費社会の立役者たちを連合赤軍と同一視するのは、トマトもリンゴもどちらも赤いから同じ植物だという類いの詭弁である。しかし、それが何かを言い当てているように思われるとすれば、ひとつには上野や糸井が学生運動の闘士であったという事実を大塚が暗黙裏に引証しているからであろう。だがもうひとつ、論理的根拠という点では飛躍があっても、大塚の議論は結論的にはやはり的を射ているのではないか。そのことを確かめるために、大塚の上野論、フェミニズム論の行方をもう少したどってみたい。
当初、「八〇年代のフェミニズムは思想などではなく消費する女性たちの心性としてのみあった」と言い放っていた大塚は、それがフェミニズムの「矮小化」だとする上野からの批判に応えてか、やがて〈思想あるいは運動としてのフェミニズム〉と大衆化された〈フェミニズムのようなもの〉とを慎重に腑分けするようになる(前掲書八五頁)。その上で、後者が消費社会的感受性と、「性関係で積極的」たりうる「性的身体」という女性たちの二つの欲望を解放したことを肯定的に評価するのだが、それもまた「連合赤軍的なもの」からの解放という言い方でなされている(同六九頁)。大塚において、連合赤軍フェミニズムとは、消費=自己実現への欲望を折り目として、あくまでもひとつながりの位置に置かれているのである。
ここできわめて興味深いのは、七〇年代ウーマン・リブ象徴的形象であった田中美津が、しかも上野によるインタビューに答えるなかで、大塚と全く同じことを語っていることだ。

永田は男並み平等を求めて革命兵士を志すわけだけど、それって結局男という上位の存在から認めてもらうことで獲得していく身分だったのね。レストランで料理を食べ残したら、ポリ袋に入れて持ち帰ると言っていた現実感覚旺盛な永田。それなのに息がってるだけの赤軍派の男たちに承認されることを願った。タブン、そこからすべてが狂っていったのよ。(……)

自由や自立を願いつつ、「光は男から」という思いこみから自由になりきれずに、男並み革命家をめざして永田は努力し続けた。(……)自立した強い女になりたい、と願った。それゆえに永田は精一杯努力し、またそれゆえに道を誤った。願ったことが罪なのか、そんなことはない! って、私は叫びたかった。それで「永田洋子はあたしだ」といったのよ。(『戦後日本スタディーズ?60・70年代』紀伊國屋書店、二〇〇九年、三〇三―三〇五頁)。

おそらく田中は大塚の本を読んではいない。それゆえこの符号が全くの偶然ではないとしたら、まさに大塚が永田の描いたイラストや文書資料から推論した内容に、永田の同時代人としての田中がみずからの実感から、ひとつの裏付けを与えているとみてもよいだろう。かくして、フェミニズム以前で挫折した永田洋子という描像の信憑性は増し、同時にその裏面としての、「総括死しなかった連合赤軍の人びと」のひとりとしての上野千鶴子という描像もまた、説得力を増す。そして、誰あらぬ上野千鶴子自身が、そのことを裏打ちしているのである。最後にそのことをみていこう。

 6
 右に引用した上野による田中美津へのインタビューの中でかなりの分量を占めるのが、田中の「永田洋子はあたしだ」という発言をめぐるやりとりである。田中の真意はすでに引用で見たとおりだ。それに対して、上野はこの発言を「自分も永田と同じことをしたかもしれないという共感や同情」という意味に誤読してきたことを隠さず、田中が真意を繰り返し説明してもなかなか引き下がろうとはしない。こうした態度に示されているのは、ここに上野自身にとってきわめて切実な問題があるということでしかありえない。それはすなわち、ある集団・組織に属することで、個人が自由を失い、誰かの命令通りに仲間を殺しさえするという事実がほとんど必然のメカニズムであるならば、どうやって「共感性・相互性の思想」を現実のものとして確保できるのか、という問いである。それはもはやジェンダーへの問いでさえない。なぜなら上野はそこで、連合赤軍だけでなく、むしろウーマン・リブの集団活動のあり方に対しても、強烈な違和感を表明しているからである。

私が同時代のリブにどうしても乗れなかった理由は、コレクティブに疑心暗鬼があったから。政治の季節の後に、男たちはコミューンに行った。女たちはコレクティブに行った。あの連赤の後に集団をもう一度組もうと思う人たちの気持ちが、どうしても理解できなかったの。(……)連赤の人たちもひとりで立っていられない人たちが集団作ったわけよね。私は、集団を組んだ人たちの地獄を見せられた思いをしたわけ。(同三〇八―三〇九頁)

 それに対して、「どうもよくわからないんだけど、集団になって活動することイコール集団主義ってことになるわけ?」と反問する田中美津の方が、普通の意味では明らかに健全な感覚を語っていると言うべきだろう。たとえ上野の集団主義に対する警戒心が、自分はもしかしたら殺した側にいたかもしれなかったという「底なしの恐怖」のリアリティから湧いてくるものだとしても、集団活動一般の否定にまで結びつけてしまえば、それは松井隆志が「根深い共同性への不信」(『上野千鶴子に挑む』二三九頁)と呼ぶほとんど非合理な心情として批判されても仕方ないように思える。また、ここから翻って上野の言う「わたし」を解釈するなら、それはどうみても個と集団との対立図式に回収されてしまうのではないか。だとしたら、いったい「共感性・相互性」はどこへ行ってしまったのか?
このような問いが、はたして解答を与えることのできる問いであるのかどうかさえ、僕にはよくわからない。だがそれがどうであれ、上野千鶴子がこの問いを放棄することはないだろう。メルロ=ポンティの名に言及したのと同じ対談の中で語っているように、森崎和江が『第三の性』で描いた妊娠感覚の叙述を読んで「自己意識の中における他者との共生感覚が、もし女である事の属性の一つであるとすると、何という希望であろう」と感じた若き日から四〇年もの時間を、上野はこの問いに捧げてきたのだ。すなわち、単一のカテゴリーの特権化や本質化を拒否する〈わたし〉が、いかにしてみずからを痩せ細らせることなしに「他者との共生」を実現しうるのか――。最近著『ケアの社会学』(太田出版、二〇一一年)もまた、同じ問いの答えを別のやり方で(実証的な社会学によって)探る試みとして読むことができるだろう。「上野千鶴子という思想運動」(松岡正剛)はつねに変転し、しばしば矛盾を犯すけれども、そこに持続する意志はきわめて一貫しているのである。あらゆる振幅をつらぬく高次の一貫性、それもまた私たちを驚かせる「師」の条件ではないだろうか。