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環境リスク学

環境リスク学―不安の海の羅針盤環境リスク学―不安の海の羅針盤
中西 準子

日本評論社 2004-09
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 2004年の刊行時にはかなり話題になった本をようやく読む。環境リスクとは何か、その意義がよくわかる入門書。

 多くの評者たちが言及してきたように、「思想」の争いには決して決着がないことを若くして悟り、万人が認めうる「ファクト」だけを追究すべきだという信念を、学会や政治家や市民団体からのさまざまな圧力に抗してつらぬく姿勢にも感銘を受ける。だが、むろんそれ以上に大事なのは著者が結果として環境リスク評価に成果を挙げてきたという事実である。良心的な姿勢をもっていても、学問的に見るべきものを生み出せなければ、そんな良心なるものには一文の価値もないのだから。

 けれども、僕が著者を本当に信用できると思うのは、むしろファクト至上主義という信念を自ら裏切るような思索を展開してしまうところである。現実的な問題にかんして、知的に誠実であれば、そうならざるをえないだろう。しみったれた「一貫性」などに納まってはいられないのだ。
 たとえば、健康被害のリスク評価にQOL(生活の質」という概念を導入すべきかどうかをめぐる、以下のような叙述。

 生活の質を考える? それはいいことだ。生きている間も苦しいのだからと多くの方が言います。しかし、実は私はQOLの研究をすること、および、それを使ってリスク評価をすることを研究室の院生やCREST(戦略的基礎研究推進事業)の研究員に長い間禁止してきました。(中略)QOLの評価は、生きている人生の質の評価です。もちろん、それは低下したQOLを回復するために使うのですが、それが完全に回復されない間は、質の低い人生とみなされるという問題が起きてきます。そのことを認めたくなかったのです。その領域は、やすやすと踏み込めるものではないと考えていました。(125ページ)

 池田正行さんの『食のリスクを問い直す』(ちくま新書、2002年)に、かつて、あるエイズ患者が、テレビで“エイズ撲滅キャンペーンというのは、自分を撲滅するキャンペーンのように思える”と語っていた、という記述があります。そうなんです。その人を救うためであっても、低いQOLだと評価されることは、当事者にとってはつらいことなのです。しかし、評価されなければ救済もされないのです。(129ページ)

 これはもはや「ファクト」の領域ではなく、著者が断念したはずの「思想」「イデオロギー」の領域の問題であることは言うまでもないだろう。ここから、ファクト至上といってもそれが通用するのは前提として大方の価値判断が共通している問題についてだけであって、そもそも何をリスクとみなすかという価値判断や世界観が争われうるところでは役立たない、といった論難をぶつけることは簡単なことだ。それはたしかに間違っているわけではないし、倫理学の存在理由はそこに宿るのだとも言える。

 でも、その誰にでもわかる正しい論難をふりまわして、いろんな意見がある、利害対立がある、といった自明のことを言い立てているだけでは、いくらなんでもバカすぎる。それも簡単に認識できることだ。「評価にはこういう難しさもあるのです。しかし、すべてを救うわけにもいきませんので、何らかの評価が必要になるのです」(129ページ)という著者の淡々とした言葉にかくされた重みに見合う「思想」が必要なのだ。「差別」を生みださない行為というものはない。何かを実行し、誰かを救うことは、必ずその影としての差別を顕現させる。まったく副作用のない薬品がありえないように、まったく差別的でない社会的行為というものもない。したがって、何かを行ない、何かを喋るなら、必ずそれによって傷つけられ、相対的剥奪を被る人はいる。それは行為すること、ましてや言論を弄することの原罪のようなものだ。もちろん、何もせず、何も主張しないことで、そうした原罪を免れることはできない。その場合は、いま行なわれている差別を追認するだけのことなのだから。だから、水に石を投げ込むことで生じる波紋をどのように引き受けるかが問題なのだと思う。

 僕にとっては、著者のような人こそが、真に「学者」と呼ばれるにふさわしい(「学者」という称号に、僕はつねに高い価値をおいている)。中西さん(だけではないが)に比べれば、自分はまだまだとてもじゃないが学者などと名乗るのはおこがましい、と感じる。しかし、だからといって、僕が中西さんのようなスタイルの学問を今後やっていくということでもないし、「思想」が無意味だと考えるわけでもない。むしろ逆に励まされる気がする。かつて筒井康隆は、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』(だったっけ?)を読んでノックアウトされ、「これこそが小説だと思う、自分にはとてもこんな小説は書けない、だが自分の書くような小説もあってよいのだ、と自分に言い聞かせている」という手紙を新田氏に送ったそうだが、それに倣って、僕には著者のような学問はとうていできないが、いま自分が自分なりに突きつめてやりつづけているような「学問」もあってよいはずだと、自分に言い聞かせつづけよう。